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娘は明日で12歳;寄り道しながら歩んだ12年

1 記念すべき日を忘れそうな日々

 明日9月5日は娘の12歳の誕生日である。ということは私が母なるものになって12年目の記念日でもある。

 もう自分の誕生日は忘れていることが多いが、娘の誕生日はさすがにこれまで、ケーキを作ったり、買ったりして、プレゼントも用意して、ささやかな家族だけのパーティーもどきはしていた。

 でも今年は、うっかりすると忘れそう。

 それくらい、日々が慌ただしい。

2   いつもと違う慌ただしさの中で

 いまの仕事についてから、いろんな相談に耳を傾けてきた。私がそれまで生きてきた中で、想像もしなかった厳しい状況のなか、懸命に生きている若者の話に耳を傾ける日々だった。

 15年もたてば、もう、ちょっとやそっとじゃ驚かない。大変だけど、今まで通り耳を傾け、今までよりは私が喋る時間は少ないものの、できるだけ本人の力で乗り越えられるような支援を心がけている。

 娘はそんな私の姿をずっと見て育ってきた。

 が、今年は、新型コロナという未知のウィルスの影響で、我が職場も教育現場なので混乱が生じ続けている。そして私の近くにいる学生さんは2年間しか学生時代を送らない。その2年間丸々厳しい状況のなか、夢にむかってがんばっている。が、厳しさが緩和されるどころか、ますます厳しくなっているなかで、不安で押しつぶされそうな人が増えてきている。

 私も不安は同じ。私も元々、こういうことには敏感で怖がりである。

 でも、そんなこと言っていられない。

3 娘の12歳を迎えるにあたって

 娘を出産する直前、新型インフルエンザが7月末に流行したのを覚えている。私は産休に入る1週間くらい前で、大きなイベントが残っていた。が、産休に入る前に、「自宅待機命令」。

 そして娘は9月5日土曜日、予定日の1週間前に、まだ暑く、でも澄み切った青空の日に産まれてきてくれた。

 朝早くから陣痛らしきものがきて、朝一番に病院にいくと、お産がはじまってます、入院してください、生まれるのはてっぺん超える頃かな、といわれ、そのまま病院に。

 てっぺんか、まだまだだな。

 と、思っていたら10時過ぎに、痛みがギアチェンジした。

 え??どういうこと???これ、看護師さん呼んだ方がいいの?我慢したほうがいいの??

 たまたまその瞬間一人だったので、プチパニックだったが、痛いから念のためにとブザーを鳴らすと、機械がどどどどっと運ばれ、検査され、

「歩けますか?」「分娩室に移動します」

と。

えーっと。分娩室2階っすよね。歩くんっすか。

で、確か階段で上に上がった記憶がある。エレベーター使わないんっすかって思ったのを覚えているから、階段のぼったんだろう。

その後、3時間後くらいに確か産まれた記憶が。お昼ごろだったので、出産後、そく、豪華なお食事を出されたが。食べられるわけないではないか。だった。確か、つきそってくれていた、ツレがたいらげたと記憶している。

 あの日のことは一生忘れないと思う。

4 次は保育園と復帰

 私が出産した頃はまだなんとか保育園に入所できた。

 が、娘は夜、寝ない子だった。今もだが。

 毎晩、おんぶして真っ暗な中歩いて、寝たかなとおもって戻ってねかせると、はい。おきるー。

 で、またおんぶして暗闇を散歩して、を繰り返し、ほぼ寝ていないまま仕事へーが続いた。

 歩き始めるのも、つかまり立ちから、最初の一歩がながかった。

 実にあの頃から、慎重なやつだった。

 人見知り、場所見知り、新しいこと苦手。年長さんまでずっとそうだった。

 ただ、たくさんの方の支えがあり、親以外のいろんな人に関わってもらいいながら育っていった。

5 小学校行けば楽になるーはずが

 はい、不登校。

 まじか、早くないか?まだ1年生5月3週目よ?

 だったが、いろんな方の助けがあり、しばし、小学校に付き添いの日々。

 私が付き添って出した判断は

「無理してこなくてもいいところ」

だった。が

 娘は決して学校から逃げなかった。友だちがいるからだ。友だちは、保育園が学区外だったため一人でゼロからつくってきた。たった1ヶ月半で。

 そして保育園時代にたくさんの大人に関わってもらった経験がここで生きていたんだと思う。人への信頼は強い子にいつの間にか育っていた。

 2年生の時に市の適応指導教室へ繋いでもらって、とことん遊んでもらった。その一方で提案された発達検査の結果はグレーだった。それが気質なのか、学校での経験が少ないからなのかは結局わからなかった。ので、そのまま普通級で進級。

 3年生の時、大きく動きがあった。

 新人の先生が担任になり、本当に一生懸命娘に声を全力でかけてくださり、娘は半分くらい教室で過ごすことができ、運動会も初めてフル参加できた。

 でも、成長はまっすぐにはいかない。また停滞し、時には下降していく。

 繰り返しながら、6年生、そして明日12歳を迎える。

6 すっかり、裏の学級委員長である

 娘の学校での友だちからの人望は高い。半分も登校していないのに。

 学校へ行くと、娘は生き生きするようになった。とはいっても、たぶんだが、教室でみんなの前で発言することや、文章を書くことは苦手だと思う。ただ、それを、よしとしてくれる環境が、学校との対話を粘り強くした結果、そして本人が頑張った結果、うまれているようだ。

 苦手なことがある一方で、困っている人を助け、困っている人がいると、先生に喧嘩を売ってくる。しかも、結構正論だったりする。喧嘩売ってきたのが4年生だった。しかも他のクラスの子が泣いていて、その子の担任に喧嘩をうってきたというか、意義あり!と体当たりしてきて、よくわからない理屈が先生から返ってきて、娘は帰宅後布団をかぶって悔しさと葛藤していた。が、ほっとくと、歌を歌いだし、そのうち怒りがこみあげてきたようで、ことの顛末をきき、それが金曜日だったので、私は初めて少ない理解者であった教頭先生へ直接、お話をしてきた。たまにしか行かない娘の、そして先生に、しかもそんなに関わったことない先生に友だちのために意見をした声をなぜ先生は丁寧に耳を傾けることができないのか?と、こればっかりはどーしても私の中で納得できなかったからだ。教頭先生はじっと話をきいてくださった。実はほかにももっと理不尽なことはあったが、ぐっと堪えてきたんだが、この時は、ちょっとさーーーーと思い、用事もあったのでダメ元で突撃したのを覚えている。

 5年生になり、長い休校明けに、教室に入れない生徒のための別室ルームができた。娘は学校にいけば教室にいけるまでにはなっていたが、別室ルームの友だちに、お化けがいるから怖いから一緒にいてほしいと頼まれたとかでそこで過ごすことが多かった。その部屋はしだいに人が増え、張り付く大人が不在で、余計に別のストレスを子どもたちが抱えるという問題が生じた。その時、娘が懸命にトラブルを解決しようと仲介し、保健室の先生に相談し、どうしたらよいか考えていた。

 たいしたもんだなと、親でさえも圧巻だった。そりゃ、人望高くなるわなと。そしてすっかり裏の学級委員長だなと。

 実は6年生になって、表の学級委員長に推薦されかかったらしいが、丁重にお断りしてきたそうだ。さらに最近は、普通に優等生している友だちが実は先生へ反抗心を抱いていることを知り、娘はなにやら作戦を立てていたが、実行には至っていない模様だ。娘も友だちもちゃんと反抗期突入で真っ当な反抗心を抱き、力強く育っているのを頼もしく思う。

 学校の先生の娘の理解も変化してきた。

 非常識な子、から、力のある子、友だち思いの子、とかになっているのかな。

 勉強も、なんだかんだ、追いついている。

 国語のテストはできないが、ただ文章を読み、理解する力はあるので、白紙でかえってくることはなくなり、何かは正解を導く答えにたどりつくまでにはなっている。学校の国語のテストはテクニカルな部分も多いので、ほっといてはいるが、一度、勉強したいと言われたので、買ってあった推理しながら問題を解いていくというよくできた本を一緒に読んで問題を解いていったこともあったが、続かなかった。小説はあっという間に読んでしまうので大丈夫かなとおもっている。

 あとの科目は、たぶん、できていると思う。ただ、学校へいく日がまだ1週間休まずいくとかはないので、できないことは多いが、やればできる力はついていると思う。

 私は何もしていない。教えようかといっても、勉強スイッチが娘に入った時期にはすでに反抗期。ママに教えてもらうのだけは嫌だ!という。そして、もうすでに、難しくて教えることが不可能。こんなに小学校の問題って難しかったかなと思う。

 娘は4年生の頃から、自力でなんとかしたり、算数だけは塾へ行きだした。っていっても月に半分は休んでいるが。漢字は自分が好きでよく歌っている歌の歌詞をうつすという勉強方法を開発していた。

 1年生の時、6+6を、6を3が二つで、+、もうひとつの6も3が二つだから12と正解を導いた頃が懐かしい。掛け算しちゃってるし、なんなら因数分解してるのか。そりゃ、学校の先生の教えてくれる方法が頭に入ってこないはずだわと思った。

 そういう娘に合う学校を見学してきて、提案しても、娘の選択は、友だちがいる学校に通い、一緒に卒業し、一緒に同じ公立の中学校へ行くであり、今のところ絶対にブレないまま最終学年最終学期を迎える中、12歳。

 こんなに人って、変わるんだなぁと、(仕事でそういう話を学生にしているものの)、まざまざと見せつけられ、学ばされた12年間である。

 まだまだ娘の旅は長い。苦労も多いだろう。(ということは親の苦労も多いだろう。なんでもかかってこいやーと今は私もたくましくなり、娘に親として育ててもらっていることを痛感する。)

 でも、こんだけ、ここには書けないような、「そんなこと、ある?」みたいなことも乗り越えてきた娘だから、もう簡単には折れないだろう。

 しなやかに、したたかに、粘り強く、力強く、自分がやりたいことを見つける次の旅が始まるのだと思う。親として、そばにそっといようと思う。そして助けが必要な時は手を差し伸べていくくらいで、十分なまでに育ってくれているのを感じる今日この頃。

 一応、朝、ツレが近くのケーキ屋さんで甘さ控えめでとケーキを予約してきてくれたので、明日はささやかなパーティをして、穏やかに過ごそう。

 おめでとう!娘殿。

 


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