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怒涛の4月から8月


1  なんだったんだ

 このノートに綴るのはいつぶりだろうか。いろんなことがありすぎた。
 仕事がのってきたいま、なぜ「休職」。あんなに中学こそはと猛勉強していた娘は完全に学校が放置。訴えても訴えても届かない声。
 わたしの休職もこの学校でのことも、他も諸々、おそらく根っこは同じなんだなと最近思うようになった。そしてその根っこをどうするかというかなり大仕事をわたしは復帰したら研究者としてやらないとならぬ。

 なぜなら休職中に舞い込む相談やトラブルは他の人では対応できないことばかりだった。一つは相談は信頼できる人に深刻であればあるほどする。だから代わりがいない。かつこの「信頼」は日々の積み重ねである。その人と真摯に向き合えているかが問われる。わたしは相談業務をしたいわけではなく自分の仕事を必死にしてきた。勉強し、やってみる。年々学生の様子の変化を感じ、この人たちにはこの方法とこの教材でいけば、より多くの人へ届く、届かなくてもタネは確実にまける、とかなーり丁寧に授業をするようにしている。っていっても使うのは頭だけで下準備はそんなにいらない。学生の反応を見ながら瞬時に変えていくので、90分の授業の一回一回が真剣勝負なのである。ただ今年は大量の模造紙を運ぶのが重かったけど。それはわたしの責任である。し、そうしてやると学生から学ばされることが多かった。この学年はこれだったらと、ひらめくことが多く、授業はかなり大胆に変え、かなり手応えがったが、ドクターストップ。

2 娘の中学校

 娘は小学校6年間まともに学校に行けていない。でも、学校へ行く努力をし、仲間をつくった。特に5年生のときの別室ルームが予算も場所もないのに学校がつくってくれ、娘は教室にはいけたのだが、そこで過ごしていた友達に「怖いから一緒にいて」といわれ夏からそこで過ごすようになった。
 中学1年になった娘は「あのとき、おっしゃーって思って何か解放された気持ちだったんだ」と先日教えてくれた。
 別室ルームができると人が増える。いろんな事情のお子さんが人手不足で大人の目に届かないところで、娘がそこをみんなにとって居心地が良くなるのかを懸命に考えていた。養護教諭の先生とも相談していたようだった。ある日「もう我慢できない」といって早退してきたことがある。話を聞いた。「なるほど。それは大変だよね。家でゆっくりしていいよいいよ。でもー、かすみを頼っている友だちはどうしてるのかなぁ」というと、娘はうーん、行ってくるといって学校へ戻って行ったこともあった。
 娘はこんなふうに「普通」ではない学校とのつながり方をし、多くの仲間を助けて過ごしてきた。この世話好きで頼りになるところは小さい頃からよく見聞きしていたけど。6年生で1年生とのペア遠足では、娘は大人気でおんぶにだっこに大変だったと。。。娘が1年生の時はわたしは一緒にペア遠足に行ったが「これ、わたしいても、何も意味ないな」と思いながら遠くで娘の様子をみていたのが懐かしい。
 そして卒業式は非常に天晴れだった、6年間の思いがこもった卒業文集の立派な文章、返事はできなかったが、ステージで校長先生から立派に卒業証書をもらっていた。式が終わるとグランドで走り回って、「何人友だちいんだよ」ってくらい写真撮影に大忙し。別室ルームにも寄ってねと先生に言われいくと、後輩から素敵な色紙。たいしたもんだな、成績表まともについたこと一度もないのに、とみていた。そして娘はくぐれなかった青門を最後に通り立派に卒業していった。

3 中学へ

 次は中学。わたしはあの規模の中学は難しいと思い、4年生くらいからあちこち情報を集めたが娘は常に「みんなと同じ中学校にいく」だった。
 まぁ、行ってみて意外と行ける可能性もある。行けない可能性もある。つまりわからない。だから娘の意思を尊重することにした。
 入学式当日、なぜか最も定着する可能性が低い娘のところにバンバン連絡。「今日の入学式って制服だよね」という連絡には爆笑してしまった。娘は娘でその仲間の不安に勇気づける言葉を送りつつ、自分も「ママ制服のこのリボンどうしよう」「ママ校章ってどこにつけるの?」って、知らんがな。。。わたしはわたしで着物を着るのに格闘していたし。
 8クラスプラス支援級3クラス、総勢270人くらいの入学式である。
 しかも名前を呼ばれ、返事をして起立するという、、、、これ、、、娘が最も、、、、できないやつ、、、どうするのだろう、、、、。きっと教室で練習しているはず、うん、大丈夫。とみていたが、娘は8組でその前のクラスで返事をしない人がいて「自分もしないでたてば良い」と思ったらしい。実に賢い? 教室の練習では返事はできたと担任の先生がおしえてくれた。
 ただ足が止まるのが早かった。授業が始まる前日に腹痛を訴えてきた。そっからしばし、、、ところが「帰りだけでも一緒に、頼む」「仮入部だけでも一緒に頼む」と相変わらず。そして仮入部だけしにいけば、まさかの柔道部って、、、え?
 ただそっからどんどん娘は苦しくなり結局、無理矢理美術部に入ったものの、行っていない。
 今回は娘は行く努力をしていた。ところがイレギュラーな授業の日の時間割を学校に教えて欲しいと問い合わせても、娘が友だちに問い合わせても答えが返ってこなかった日、娘は「散歩にいってくる」といって気持ちの整理にでかけ、気にかけてくれていたある親子に話を聞いてもらって帰ってきた。
 小学校の運動会にいくと、中学に上がった仲間も大勢いて楽しかったと。
 小学校の別室ルームにもいって楽しかったと。
 でもそこはもう自分の居場所ではないことも確認し、娘は部屋に引きこもり出した。

4 うーむ、どうしよう 

 娘は部屋からでてこなくなり、わたしもその時期しんどくてほぼ寝ているしかできない状態だった。困った。
 が、パパが娘の話を辛抱強くきいてくれていた。「ママは寝てて良いから」といってくれて。
 どうもクラスのグループラインができたらしい。
 どうも学年のグループラインができたらしい。って、、、学年の???
 そして週に一度なぜかマックへでかける、、、。何してるんだ?

 なーんかおかしいし、私が「この学校は信頼できると思ったよ」っていったからわたしを避けてるのか?ぶっちゃけもうこんだけミスが続くとわたしはもう信頼なんかしていない。だからそれをどうやって伝えようとおもった。パパにちょっと小芝居してみないかともちかけた。
 娘の部屋の隣はリビング。そこでわたしとパパで、「この学校ちょっとおかしいよねえ」「市長の名刺もってますけど、でも管理職でてこないし」と事実をちょっと漫才風に、、、すると娘がパパにLINEで「うるさい。あっちでやれ」と。聞こえてるんだなとおもった。
 ところがもう食べられないご飯をかきこむように食べながらわたしは感情が限界だった。「なんでこんな良い子がこんな目に遭わないとなんないの?パパは悔しくないの?」と大声で大泣きして叫んでしまった。。。
 学校は忙しいのも嫌っていうほどわかっていても、classroomを使って連絡と生徒とできるようになっていることも知らされていなかった。尿検査なども。学生証も。担任の先生は誠実な方、でも、多すぎる。大事な連絡ミスが。また学年主任は話を聞いてくれなかったし、ならこうしてほしいに「わかりました」っていってたけど、連絡なし。後日わかったことだが「こうしてほしい」は実現されていなかった。教員間の連携ミスである。だいたいそんな忙しいのに勘弁してくれみたいに会議室くるなら、娘はそのまま教室にいけたのに。事務の方が親切でそうしてくださったんだけど。(ため息)。
 そんなことが続きわたしは5月には学校を生まれて初めて信用できんと思い、いかなくてもいいとおもった。
 娘のところには仲間から学校の情報は常にはいってくる。だから娘は「どうして先生はわたしには何もおしえてくれないのだろう」と思うに決まっている。そして「まぁ自分が行ってないからしょうがないか。先生忙しいんだよね」と12歳に教師が思わせてしまっていたのである。
 ただ娘は一人ではなかった。ある時から、よく出かけるようになった。一つは「あそびの広場」という誰でもどうぞの居場所。地域の方が行っていて、小学校の別室ルームで娘が出会ったあの親子がやっている。そこへ行くようになった。もう一つは週に一度のマック。ここで学年主任の先生が怖くて学校へ行けないという子どもたちが会合をしていたらしい。その地域の大人も同席のなか。

5 こども文化は機能してるんだー、学校は、、、、

 なるほど。こども文化はマック集合とLINEで形成されているんだなぁと思う。一方学校文化は機能不全状態。論文にしたいくらいのエピソードである。実際、教育学部の方に伝えたら、そういう意味のインパクトがあるエピソードですねとおっしゃっていた。でも娘のことを論文にはできん。無念。っていうか、私たち大人は本当に子どもや若者に見られているのだと思った。しかも的確に。
 だからもう学校はいいやと思った。が、後3日で夏休みというところで娘がわたしの部屋にきてわーーーーーーーーーーーーと喋り出した。
 ちょっと命に関わる相談を娘は仲間から受けていたので、これはーーーさすがにーーーと思っていたが、ここで初めて学年主任が怖くて学校へ行けない子が複数いると、、、。まじか。
 これは、しんどいが、動くしかないが、どうしよう。「市長の名刺」でも出てこない管理職。パパが結構がんばっても希望が通らない別室ルームの使用をめぐるルールの変更などなど。で、どこが信頼できる窓口かわからなかった。ただ子どもたちが学年主任が怖いなら、そこはすっとばしてもらわないとまずい。
 わたしは一晩中かたっぱしから思いつくこういうことにアドバイスをくれる方へメールしまくった。2時間くらいかな、かけて。数時間ねて、朝5時から入ってくる返信と睨めっこ。たくさんの返信があり、感謝でしかなかった。あとはどれがこの場合いいのか。でもどうやら校長にがよい。が、小学校のとき校長で、なんなんだこの校長はって経験もあり、うーん、信頼できるかだなぁ。あたってみてダメなら、これとこれとこれくらいまで準備をしていたら、信頼できる方から「校長は良い方です」との情報。よし。
 そして生徒指導主事に動いてもらうとの連絡もその信頼できる方がわざわざ教えてきださった。よかったーーーーー。生徒指導主事は別室ルームの使用をお願いしたときにその人と担任と保護者と本人で面談といわれ、パパが「娘にはそのルールはむずかしいからハードルをさげでほしい」とお願いしていたのだが、夫婦共に娘に、生徒指導主事は良い人だと思うよと娘に伝えても「見た目が怖かった。無理無理」と。担任の先生もうごいてくれていたが「特別扱いになるからっていう意見があって、、」と。そこでパパは「それは特別扱いではなく配慮では」と答えたそうだ。パパ、成長してる、、、とびっくりしたけど。学校は手強いなぁって。

6 生徒指導主事の方から電話で動き出した

 わたしは学校からの電話を待ったがなかなかこない。体が辛いからちょっと眠るねってタイミングできたー。わたしはこの間感じていたことを笑い飛ばしながら伝えた、特に「傾聴と説明がないからこちらは不安が増すばかりだった」と。すると「そこが課題なんです」と。
 「毎週会議はしているんです、、、」、うんわかる、先生方はみんな一生懸命、でも当事者の声を聞かないで会議してても、、、
 「学年主任は熱い方なんですけど」、うんなるほど、確かにそういわれればそうである。がぶっちゃけあんな簡単なお願いが連携できてないってことは「力不足」である。実際怖がっている人がいるんだし。
 「命の問題。ご家庭が大変で既に行政もはいってて」、、ってなら余計にその子の様子をよくみないのかしら??ここはぐっと堪えてわたしは発しなかったが。ただこれはいった「学ぶ意欲と機会を先生方の小さなミスが重なり奪われた娘がなぜ教師や大人がやるべきことをしているのか」と。強くいった。「本当に申し訳ないし、かすみさんには感謝している」とのことだった。
 そして「別室ルームのあのルールで行ける子は教室に行けるとおもいますよ。小学校の別室ルームをイメージしているお子さんには余計にハードルが高いと思います。もったいないと思います」と。別室ルームは市が不登校対策に予算をつけ、動き出したが、どう動かすかをめぐり苦戦している様子だった。教師は本人と面談し目標をきめてから、という。生徒指導主事の先生は、アセスメントをしてという。おそらく目標とアセスメントはかなり意味が異なるはずですよねってつたえておいたけど。
 で、明日会えないかと。本人に聞いてみます。とわたしは答えて電話をきった。
 ら、すぐ次は担任からの謝罪って、まった同じ話するのーとおもったけど、話すと先生が沈黙、、、、で「あ、先生を責めているのではありません。先生は娘にあっている、よかったって思っていますから。学校としてなぜ先生をサポート出来ないのかって話です」って、もうめんどくさい。
 ただその先生は本当に一生懸命誠実に娘のために同僚の先生方へ働きかけていたことはよーくわかっている。
 娘が帰ってきたので、明日学校へ行けないかを聞かねばならぬ。わたしはこういった。「かすみ、明日ね生徒指導主事の先生がかすみに会いたいんだって。その先生はSさんと一緒に仕事したことがあるんだってよー」というと、「行く!」とのこと。Sさんとは小学校2年生のときに市の適応指導教室でお世話になった方で、わたしは娘が無事に卒業したことを今の勤務先の学校へ電話をした方。そしたら「今から会えませんか」というのでいつかの思い出があるコンビニの前で再会し、娘をみて、話しかけて、「ではまた」と帰って行った。忙しそうだった。お若いのに結構な仕事させられてるんだなぁと短い会話からわかり、きっとかすみにあって何かを確かめたかったのだろうなと思っている。
 そもそも、ちゃんと話を聞いてくれれば、Sさんで繋がれたのに、もう夏やすみだし!!!
 翌日家族で学校へ行く予定だったが、わたしはホッとして泣き崩れ、二人で行ってもらった。生徒指導主事の人はまず「わたしはね、Sさんの結婚式にもいったんだよー」からやりとりがスタートしたとのこと。雑談から入る、基本である。遊びでもいいんだけど。まず相手の警戒心を解く、これはとても大事なこと。さすがだなぁと感じた。そして娘の話を上手に聞き、水曜日ならこれそうだよねってことになったようである。また逃げ場となる保健室ともう一箇所案内してくれたそうだ。そして先生が「(学年主任の先生)そこまで嫌われちゃったかーとため息だったらしい)。
 できればもっと早くとおもうが、ギリギリセーフである。学校にいくかどうかではなく、助けてって頼んでるのにことごとく答えてくれない経験をしてしまった娘が、今後SOSを大人にはっしなくなることが怖かった。かつわたしと学校は話し合いでこの問題について考えた。対立ではなく話し合いで解決するのだということを子どもらはみて学んだはず。実はこれはわたしが今回最も学ばせていただいたことである。
 校長は良い方だと教えてくださった方が「方法はいくつもあるけど、ここは大人が話し合いで解決する姿を子どもに見せてやりたいから」とメールにあり、なんのこと?と思ったが、こういうことか、確かにとっても大切なことだと、噛み締めたし、大事にしていこうと思った。

7 夏休みもあと1日でおしまい

 こうして夏休みに。なんどか担任の先生から荷物を取りに来て少し話ができないかと連絡があった。娘は「面談みたいになると、先生が硬くなるから立ち話がいいんじゃないかな」という。なるほどとおもった。確かにともおもったが、結局行けなかった。
 娘はいま「あそびの広場」に関わっている大人が、常設での居場所でかつここにくれば学校出席扱いにしてほしいと学校に交渉している方々と、その新しい居場所へ出かける。やっと名称が決まりつつあり、一回300円ときまり、先日は20時に迎えにきてといい、みんなでお好み焼き、翌日はたこ焼きをつくって食べてきた。
 娘の部屋のこたつもそこへ寄付するという。娘がこだわってこだわって買ったものだが、ちょっと大きいし、部屋をもう少し自分で変えたいらしい。使ってもらえるならいいし、まだあのこたつ綺麗だし。
 その居場所の写真をみせてもらったが、本当におうちってかんじで、ここにあのコタツは良いかもねーと思う。娘はそういうセンスも抜群なんだけど、本当にすごい子だと思う。
 今は、学校は水曜日にいく、後の曜日は「あそびの広場」か同じ場所で火曜日に動かし出したのは、みんなで学ぶかんじでっていっても今日はなにをするかをみんなできめて、お菓子作ったりする学びを提供してくれている。そして今行っているちょっと遠いけどそこ。をうまく利用するつもりでいるようだ。
 十分である。この子はわたしが定年したら作りたいとおもっていた居場所の利用者でもあり作り手でもあるのか、すごいなぁとただただその「生きる力」、自分で人生を切り開く力に天晴れである。
 ただ、まだまだ苦労もするだろう。でも、いまとっても生き生きしていてたのしそうである。学校もその学年のグループラインがさらに細分化し、娘も何個か入っていて、先日はそのメンバーで遊びに行っていた。楽しかったそうだ。学校には大事な仲間がいる。水曜日だけでも行こうと思う原動力はそこ。そして日常生活で十分生きていくために大事なことは身につけている。確実に。居場所には小学校低学年から専門学校生や大学生や大人もいる。その人たちとの時間のなかでいろーんな大事なことをおそわっているのだなと思う。
 ちなみに夏休み明け最初の水曜日はテストのためパスだとか。そうやって自分で決める、これも大事な力。そしてそのことでどういうことが自分に起こるのかももう本人が嫌というほど理解しても、それを選択する。つまり自分の決断のあとのことは自分で責任をとるということもすでに学んでいる。実際はそこはまだまだ親の役割であり、夫婦はとうに覚悟が決まっている。
 娘の次の章が楽しみである。
 わたしの休職もそんなこんなで伸びてしまったが、それはそれでわたしの人生で大事なことを学び気づき、生きるって楽しいんだぁと思えることがたくさんあった。でもそれはわたしの物語。自分の今後もどうなるかわからないが、おっきなおもたーい荷物を下ろせた感覚でいるから、良い方向にいくと信じ、娘の次の章をもうちょっとだけ、みさせていただく時間にしようとおもっている。今はだから、体力つけなくちゃってくらいで、やっと歩いたり自分で食事をつくれるまでになった。次は運転なんだが、、、のんびりやろうと思う。できれば年内には復帰したいが、正直わからん。
 わからないことはわたしには常に「不安」だったが、今は「楽しみ」と思えるように、なんか意味不明に体験したことがないパニック発作に耐えて収まったときに、すっきりし人生観が変わって、楽になった。発作はあれ以降でないし。だからわたしの病の根っこはそこで、その根っこは今をいきる子どもや若者はもっともっと大変になっているのかという気づきもあった。
 だから少しずつ活字も読み、研究の下準備をじっくりし、体力をつけ、次のわたしの章は、今まで以上に大忙しになると思う。楽しみである。

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