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貧乏にはお金がかかる

小学生の頃、地元にコストコができました。

どんなお店であるかを含め、その存在を知った日から、お金がない人が絶対に訪れることのできない場所の一つに入るだろうなと私は思っていました。

だってコストコは、ある程度お金はあるけどできることならお得に暮らしたい、という人が行く場所であって、【今月の生活費がまじでギリギリ】みたいな人が訪れる場所では到底ないと思っていたから。

同じような話で、大学生の頃に友人が「彼氏がお金ないって言うくせに、定期を1ヶ月分しか買わないんだよね。本当にお金ないなら3ヶ月分でも半年分でも、まとめて買った方がお得じゃない?」と言っていたことがありました。

【今月の生活費がまじでギリギリ】みたいな人は、結果損をすることになったとしても、3ヶ月分、ましてや半年分の定期など到底買うことはできません。

私は大人になるまでコストコを訪れたことはなかったし、学生の頃は1ヶ月分の定期しか買えない日々を送っていました。

お金がなくてつらかったことは、語り始めると酒があってもあっても足りないくらいですが、一つに「長い目で見られない」というのがあると私は思っています。

「その日暮らし」とはまさにそうで、その日とまでは言わないまでも、とにかく今月を生きるのに精一杯だったから、長く続けることによって得が生まれることに関しては問答無用で切り捨てていくしかなかった。
もったいないとわかってはいても、今日2000円のお米5kgは買えないから、100円のパックご飯を1食分買う、みたいな。

それの何がつらいって、長い目で見られないというのは、ある程度お金がある上で節約をしている人たちから見ると、明らかに「贅沢」をしているので、お金ないとか言いつつ無駄使いしてるよね?だからお金ないんじゃないの?と思われてしまう。

おかしな話ではありますが、貧乏であるというのは、実は逆にお金がかかるんです。

大学生のときに定期を1ヶ月分しか買わない彼氏について愚痴をこぼした友人は、「本当にお金がないから1ヶ月分しか買えないんじゃない?」と言った私に心から驚いたような顔を見せて、「そういうもんなんだ、知らなかった…私が間違ってたな」と言ってしばらく考え込んでいました(いいやつ)。
私は私で、人の常識というのは置かれた環境によってこんなにも大きく違うものなのだと、驚いた記憶があります。

お金って、誰にとっても必要なもので、誰にとっても見た目は同じだけれど、育ってきた環境や今置かれている状況、コミュニティなどで全然違う価値観を生み出しますよね。

ある程度お金がある家で育った人は、まさか「明日暮らせない可能性がある」なんて夢にも思わないわけですよ。
絶対に安全な明日がくるし、絶対に明日もご飯が食べられると思っている。
でも「明日暮らせない可能性がある」が常識だった人は、絶対に明日もご飯が食べられると思っている人の気が知れない。

だから、お金に限らずですが、改めて自分が常識だと思ってきたことが、誰にとっても常識であるとは思ってはいけないのだと私は思うのです。
自分にとってはまさかのところで共感してもらえないことって、本当にあるんですよ。
しかも、かなりの頻度で起こり得る。

私の場合、友人の中でも1,2を争う(?)貧困家庭の出で、周りとのギャップを常に感じてきたため、そのことに気が付くことができました。
良かったのか、悪かったのか。

ちなみに、そんな私が初めて貧乏を脱したと思えた瞬間は、紛れもなく【コストコに行って、初めてちゃんと買い物ができた日】でした。

「10食でこの値段?」「冷凍しておけば全然食べれるよね?」「安くない?」
私にとってはものすごく幸せを感じるセリフでした。長い目で見るってこんなにお得なんだと感動したのです。

ある程度「明日もたぶん安全に暮らせるだろうな」「このままいけば明日もご飯が食べられるだろうな」と思えるようになった今、私は「長い目で見ることができる」ということのありがたみを日々噛み締めています。
誰に対してかは全くわかりませんが、とにかく毎日がありがたい。

これが、生まれたときからずっと長い目でみることが当たり前だった人には訪れない幸せだったのかと思うと、貧乏もなかなか悪くなかったかなとは思います。

…嘘です、完全に強がりました。

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