知らんぷりしたっていいじゃない
突然ですが、私注射がすごく苦手なんです。
まああまり得意な人はいないとも思うのですが、私の場合は毎回年甲斐もなく「痛い」と口に出しながら苦々しい顔をして、看護師さんに「痛いねえ、もうちょっとだからね」と、子どもの患者さんに対していつも言っているであろうセリフを言わせてしまうぐらい苦手なんです。
加えて厄介なのは【腕に針を刺される瞬間から抜かれる瞬間までを、全てこの目で凝視しないと気が済まない】という点でした。
それは子どもの頃からのクセで、注射を怖がってどんなに泣いていても絶対に腕から視線を逸らさないし、母に「見ない方がいい」と顔を背けられたとしても、それを力ずくで振り払ってでも絶対に見る、という執念を見せるほどでした。
自分の見ていないところで痛いことが起こるのがとにかく嫌で、その全てを泣きながらでも把握していたかったのだと思います。
それを現在に至るまでずっと続けてきたわけですが、最近ふと「もしかして注射の瞬間を見ているから、気が紛れなくてより痛く感じるのではないか」という、きっと誰しもが大人になるまでの早い段階で気が付いていたであろう可能性に、ようやく辿り着いたのです。
これまでの私は誰になんと言われようとも注射の針から目を背けることはなく、謎に自分のスタイルを貫いてきたのですが、心境の変化もあって、ひとまず注射の瞬間を「見ない」ということにチャレンジしてみようと思いました。
そしてつい最近採血を受ける機会があったので、早速実践してみたのです。
針が刺さる瞬間はいつものクセでうっかり見てしまったのですが、すぐさま窓の方に視線を逸らしました。
窓からは木々が風に揺れているのが見え、「イッ、イタ…ああ今日は風が強いんだなあ」などと意識を逸らすことにもギリギリ成功しました。
すると、なんだかいつもよりあっという間に採血が終わった気がしたのです。
…あれ、やっぱり凝視していない方が痛くないのかもしれない。
私が32年間こだわってきたことは一体なんだったのか、と脱力しました。
考えてみたら注射だけでなく、私は昔から自分にとって「つらいこと」や「痛いこと」を、とにかくこの目で凝視しないと、つまりどんなときも【本当のこと】を知らないと気が済まない性格でした。
本来は知らなくてもいいことでも、たとえば「〇〇ちゃんが私のことを嫌っているらしい」みたいな話を耳にした際には、自ら首をつっこんで真実を追い求めた結果盛大に傷つく、みたいなことが度々あったのです。
【真実は確かにそこに存在しているのだから、知らないからといってなかったことになるわけじゃない。当然知るべきだし、知った上でどうするかを考えないと根本的な解決にはならない】といった、なんというか途轍もなく真っ当すぎる考えを持っていたのだと思います。
けれどようやく、自分のその考えを疑うことができるようになってきたのです。
嫌なことやつらいことを知らないまま過ごせるのであれば、それはそれで幸せなのではないだろうか。自分が痛いと感じてしまうことを、わざわざ目にする必要はないのではないだろうか。
これは私の人生において、かなり革新的な考え方でした。
【見ないようにする】というのが、ただただ逃げるためのズルい行為ではなく、自分を守るために必要なことなのだとようやく気が付くことができたのです。
とはいえ、次の注射の機会にはまたうっかり凝視してしまうかもしれません。
けれどなるべく目を逸らし、痛みを誤魔化すことを心がけようと思います。
そして徐々に【知らなくてもいいことを、歯を食いしばって無理やり知ろうとする】という行為をやめられるようになればいいなと思います。
嫌なことは、鼻歌でも歌って知らんぷりしちゃえばいいんだよね。
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