そんなんじゃ食っていけないよ

自分の経済という固定観念から脱出してみると、過去に言われてひるんでいた言葉「そんなんじゃ食っていけないよ」という言葉がまったく効力を発揮しないようになっていることに気づいた。

今の基本的なスタンスは「食べさせてください」だ。乞食も真っ青というか、私がそもそも乞食である。こじきというか、仏教語のこつじきと呼ぶか、それが問題だ。いや問題でもない。どちらでもよい。実態として、私はこじきです、と言おうと、言うまいと、変わらない。少しばかりの羽織ものが違う、くらいのものだろう。

いろんな人に会うが、喜んで食べ物を差し出して下さる。食べ物を一緒に囲み、ご飯を食べることに喜んでくれる人が多い。なんとありがたいのだろうか。そんなじゃ食っていけない、ではなく、こんなんで食っている、のである。経済の目標の大前提は生活の糧を得ることにあるのであれば、私は巡礼経済をまさに生きていて、その流れによって、人が喜んでくれる。食べ物がやってきて、胃にダイレクトに働きかけてくる。自由に食べたいものを好きなだけ食べるということはできないけれど、ありがたく頂く流れでご飯を食べるということは、格別の良さがある。

食べるために働くというところから脱して、自己実現をするために働くとか、社会貢献のために働くとか、そういう+アルファの流れを作り出せる人はすごい。しかし、食べるために働く人もすごい。人は多少は食べないと生きていけない。その食べるということが充実すれば、人間として十分足りているのではなかろうか。

いろんな人とご飯を食べながら、その人たちとの間で妙な連帯感が生まれるようになってきた。一緒に地球の生態系に依存して、それがなければ生きれぬ者同士、今日もご飯を食べれてよかったな!とお互い確認し、特に縛り合わずに解散する。その関係は果てしなくめんどくさい。正解がない。ご飯を食べるという身体の記憶が思いのほか残っているのかもしれないと思う。

そんなことを思いながら、ご飯を食べさせてもらった土地の吉野へ向かっている。

以前滞在していた時は、詩を書いたり、空揚げを配っていた。その時「そんなんで食っていけないよ!」と言われたら、頭の中の妄想や実験精神は根絶やしになり、二度と出てこない状態になったかもしれない。でも、吉野の人たちは、それを面白がってくれた。そして、時々食わせてくれた。ありがたい人たちだ。

「そんなんじゃ食っていけないよ」 

ではなく、

「そんなのでも食っていけるように遊ぶにはどうしたらいいだろう」

と考えてみるのはどうだろうか。

食っていくには、食わせてくれる他者が必要だ。それが動植物が差し出した命という名の他者かもしれないし、食べ物を差し出してくれる他者かもしれない。人の世では、食わせてくれる人がいたら死なない。私も力をつけながら、圧倒的に食わせてもらった身体感覚を生かしながら、食わせてあげれるようになっていこうと思う。食わし食わされ、生きる。生きるにあたって、食べるのは、大事だ。

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