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長崎市、77歳おばあちゃんに話しかけられた。おばあちゃんは、浄土宗の流れを汲むおうちに生まれたらしい。そのおうちにお邪魔することになった。

犬の散歩中だったらしく、お犬さんが座っている膝の上に飛び込んできた。たいへんワイルドである。「そのへんでお茶でもどうですか?」と誘ってみると、おうちでお茶をどうですか?と言われた。お犬さんとおばあちゃんと共に散歩をしながら、歩いていくと、おじいちゃんと息子さんと同居してらっしゃるというおうちにたどり着いた。

おばあちゃんのお姑さんにあたる方が、仏教に熱心だったようだ。つらつらと話すおばあちゃんの話を30分ほど聞いていた。おばあちゃんはしきりに「ありがたいねぇ」と言う。生きてこれたのも同居してるおじいちゃんのおかげさま、ご先祖さんのおかげさま、と。

「ご先祖さまは、家のこと?血筋のこと?それとももう少し広く、これまで生きてきた人たちのこと?(さらには動植物も含め、あらゆる命のこと?)」と聞いてみると、おばあちゃんはこれまで生きてきた人たちのことよ、と答えた。巡礼をし始めてから、ようやく、先祖教とでも言おうか、日本の至るところで見聞きする、そして自分の家でも頻出の信仰に対して、ウッとこなくなってきた。その考えに生かされてると感じているのなら、それはそれで大事なことだから、おばあちゃんの信仰は、尊い。

一つ、印象に残った言葉があった。おばあちゃんは、ご先祖さん(祖先)の方々がいて、「たよりになる」のだという。わたしは「たよりになる」という言葉を、亡くなった方々を主語にして使ったことはない。「たよりになる」という表現を辞書で調べると、「安心」の文字を見つけた。実際に現実にいようといなくても、たよりになる存在(の総体: ご先祖さん/祖先)がいると、安心感が違うのだろうね。

対して社会の中で、たよりになる存在とも言えないだろう我が身を振り返りつつ、おばあちゃんの家をあとにした。川沿いをゆるやかに降りながら、晴れやかな気持ちで苦笑いを携えて歩く。右手には山の斜面にお寺があり、たくさんのお墓が見えた。無作為に寄り道してお墓の一帯に入り込むと、猫がお墓と壁の間からこちらを見ていた。

「こんにちは」「にゃあ」

猫の手を本当に借りようとすると、役には立たないかもしれないが、気持ちはやすらぐ。わたしも、せめてそれくらいにはなれたら、そう思った。

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