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【日記】秋田4日目〜豊漁を祈る縄文人が残した石から芸術の起源を想う〜

ただ今、秋田に来ています。

秋田4日目。由利本荘市から今日もスタート。朝遅くSさん宅を出発した。喫茶店でしばしパソコン情報を集める。今日の1日の方針は決まっていなかったので、どこに行くか?ということを自分たちに問うところから始まった。

先日、鳥海山の話をSさんたちとしていたこともあり、鳥海山方面に行ってみることになった。矢島という駅があるらしく、そこまでローカル線で行ってみることにする。調べてみると、郷土資料館なるものがあるようなので、現地の習俗について理解を深めるために行ってみることにした。

ローカル線に乗る前に、近くにある図書館に寄ってみる。図書館は結構新しく照明が適度に抑えてあって、いい感じだ。そこで思いがけず「ジオ」の言葉を空間から拾い上げた。図書館側から直々に「ジオパーク」コーナーが作られていて、地層や鉱物などの本が置かれていた。秋田では特に地層や鉱物についても理解を深めてみたいと思っていたので、このコーナーとの出会いはちょうど良い。

メモ。男鹿半島について。

秋田県の男鹿半島北西部には三つのマールが存在し、東から一ノ目潟・二ノ目潟・三ノ目潟と呼ばれている。マールとは火山の爆発的噴火でできた円形の窪地であり、目潟はそこに水がたまったものである。噴出物は窪地の東側に分布している。マールは日本に数例あるだけで、東北日本では唯一の例である。湖底から保存状態の良い年縞を示す堆積物が回収された。(中略)男鹿半島は、そのほとんどが新生代とよばれる地質時代にできた地層からなっている。

秋田の地図を見ると、男鹿半島が日本海にニョキッと突き出している。なまはげの文化が生まれてきた男鹿半島は世界的に見ても新生代とよばれる地質時代を研究する上では重要な場所であることがわかった。

ちょっとした本から拾った言葉。稲作と米と小麦について。

稲作技術が発達していない時代には、稲よりも寒さに強い小麦が注目されていました。秋田は冬が早く春が遅い豪雪地帯。穀物は年1度の収穫。冷害による飢饉の心配もあった。

本の名前をチェックするのを忘れてしまいました。

稲作技術が発達していない時代、というのはどのあたりの話なのだろう。農耕の生活にシフトする上で、土で栽培するという技術が培われていったのだろうけど、秋田でも稲作技術が未成熟だった頃と稲作技術が発展していった頃とでは文化形態が違うのだろうね。

そういえば、他の本に、ジオサイトと宗教の聖地は重なっていることが多いという記述も見つけた。これはまさにそうだろうと思う。山形でいうと、出羽三山あたりは山が連なる面白い地形になっていて、なおかつ、羽黒系の修験の聖地でもある。この文章の初めに出てきた鳥海山も同様に山伏の聖地だ。山岳信仰の対象だった。

日本の古神道・原神道・アニミズム的感覚を持っている人たちもいたのだろうか?と想いを馳せた。これらの地域と芸能の関係も大変興味深い。芸能も単なる興業というよりも、神や仏、精霊などを表象するものだっただろうし、舞うということは根源的な意味合いを生ずるに違いない。人間が人間に舞うという構造ではなく、圧倒的な地脈から受け取ってしまう力のようなものを自らの身体に引き下ろしてきた時に起こってしまう現象だったのかもしれない。このあたりは人類学や民族学、地形の研究を深めないと見えてこないと思うので、いったんこのあたりで終了しようと思う。

羽後本荘から矢島への電車移動の風景1

矢島に着いて、駅の近くを歩く。雪がビュービューと降ってきて、寒さに肩が丸まった。歩いて5分ほどの距離にある現地の郷土資料館に行ってきた。

郷土資料館にも由利本荘市に置いてあったようなラインナップのジオ関連の本が置いてあった。ここでも鳥海山、象潟(きさかた)の文字をよく見つける。鳥海山での大噴火によって、マグマが北の方に流れ、それで作られた地層がにかほ市や由利本荘市を構成していることがわかった。温泉が湧いてくることは、ここらの火山活動の影響の賜物だ。だが火山活動に伴う水蒸気爆発やカルデラの発生、溶岩による村の消失など、昔の人たちはどれほど悩まされてきただろう。恵みの象徴であり、災害の象徴でもある。地球の大きな大きな力のほんの表面の動きに過ぎないとしても、私たち人類にとっては大事なのだということを資料館を巡りながら再度実感するに至った。

郷土資料館では縄文土器も展示してあった。

秋田に入ってから、サケが豊富に採れたという話を聞く。川に遡上してくるサケは縄文時代の人たちが食べたものであっただろう。今のような保存技術もないだろうから、乾燥させて少しずつ食べたのだろうか。サケマス論も紹介されていた。

東日本の縄文文化の食生活を支えた大きな要素として、サケ・マスの役割を論じた「サケ・マス論」は有名である。簡単に紹介しておこう。毎年秋から初冬にかけて、群れをなして河川を遡上してくるサケやマスを、縄文人は大量に捕獲し、干物や薫製にして冬期の保存食料にしていたとする説で、山内清男氏によって提唱されたものである。しかし、これまで縄文時代の遺跡からはサケ・マスの骨があまり出土しなかったため、批判的な見方も一部にはあった。秋田県内の河川の中・上流沿いに、単独に建てられていた「サケ石(サケと思われる魚が群泳する線刻のある大きな石)」は以前から広く知られていたがどの時代のものなのか確定せず、積極的に論じられることもなかった。

近年になって貝塚の詳細な調査が進み、海岸部の貝塚からでさえ、サケ類の骨が少量ながら必ずといっていいほど発見されるようになった。加えて秋田の「サケ石」は縄文時代前・中期の遺跡付近で見つかっていたこと、また同様の「サケ石」が縄文時代中期の岐阜県の門端遺跡からも出土した。これらのことから見て、「サケ石」は、縄文人が川に遡上するサケの豊漁を祈って建てたものと考えられる。なお、北アメリカの北西海岸でも、サケの遡上する河口に石を立ててサケを呼び寄せる習慣があり、この民族例とも共通している。

日本の歴史 縄文の生活誌 より

このような文章を読んでいると、縄文の時代を生きていた人たちにとって、サケは生活の中でとても重要な存在だったことに納得する。川が汚れてサケが遡上しなくなる事態にもなっていなかっただろうし、サケが自ら川を昇ってくるというのだから、それほど有難い話はないだろう。サケがやってくるように石を立てて、願う、祈るということもやっていても何らおかしくないと思った。

ドローイングの観点からは、石にサケの群像だと思われる線を刻むという行為に興味がそそられる。食が巡ってくること、刻むこと。それらが何ら切り離されていない感じがする。だだ描くということ以前にサケの群れがやってきて、生かされるということが描く(彫る)ことに直結している。

魚形を表した目的については、いろいろ考えられるが、豊漁を祈るためであったのかもしれない。線刻に使用した利器は、石小刀であったと見られている。

由利本荘市 HP

魚の供養碑、豊かな川の恵みを願ってつくられたものと考えられる。

湯沢市 HP

そういえば、豊作を祈るという形式は、(五穀豊穣をまつる)新嘗祭とかにも共通する人間の営みだなー。自分たちがどうしようもなく、動植物の命を前提として生きながらえていること。それらの供給がストップすると、つまり、身体に流れてくる流れがなくなると、生きていくことができない。祈るという行為は、自分たちの有限性をほんの少し拡張させてもらうことなのかもしれない。世界は自分たちを生かすために回っていないのだけど、その流れのほんの一部お借りします、という表明のようにも思えてくる。

芸術の起源は、芸術の中にはない。外の世界に触れるところに生じてくる。

さまざまなことを考えながら、矢島の郷土資料館を後にした。もう一度由利本荘市の方に戻っていく。雪深かった景色から、雪がうっすらと積もる景色へ電車に乗りながら移っていく。途中で温泉に入り、身体を温めた後、迎えにきてもらって滞在先のSさんのお宅に帰り着いた。

Sさん宅では3日連続でご馳走を頂いた。今日はカルパッチョと海老、海老の味噌汁とご飯。お腹がはちきれんばかりに食べさせて頂いて、動けなくなるほどだった。本当に美味しい。近くの漁港からやってきた魚たちが、当たり前だが海を泳いでいた存在だということを想う。まさに縄文人がサケに生かされていたであろうように、私はこの数日、たくさんの魚をSさんのおかげで食べ、自分の血肉にさせて頂いた。豊かな魚の流れがあってこその身体。ずいぶん魚が身近になる滞在になっている。

夜、由布院の方で知り合った秋田通の編集者の方に連絡を送り、秋田の方を何人か教えて頂いた。そのうちの一人に連絡をしてみようと思う。連絡を取る方はマタギをされているとのことで、会う流れになると山の文化も知ることができていいなぁと思う。

海と山、温泉、関わってくれる人のやさしさ。ゆたかな流れに生かされている。豊かさに支えられると、自然と表現が出てくるものなのかもしれないね。

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こんな感じの秋田4日目でした。5日目は特にすることも考えていないのですが、由利本荘市から秋田市に戻ります。明日も良き日になりますように。

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