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7日目を生きる蝉は、自らの命の終わりを知っているだろうか

昨日、大学時代に関西に滞在していた頃からの知り合いとともに、「Slow Down Session」というタイトルのオンラインZoom会を実施した。ファストに流れる世界の中で、一歩スローダウンして考えることの価値を再定義したいという想いを汲み取ってくれた知り合いが作ってくれたオンライン企画だ。(荒川くん、ありがとう!)

「志村けんさんが亡くなった」という話題からスタートした対話の時間。開始15分で、「死」をテーマに深く潜るような時間になった。  

1つの時代を作ってきた国民的なスターとも言える人が、コロナ騒動の中で亡くなったことは、とってもメモリアルなことだ。Twitterで、Facebookで、多くの人たちが追悼の投稿をしていた。彼の笑顔の写真が時間を置いて、タイムラインに何度も出てきては消えていった。

私は志村さんに会ったことはないけれど、テレビの画面越しに見ていたコメディアンの彼は、自分の記憶の中にもちらほらと散在している。訃報とSNSでの投稿たちは、今を生きている私の脳裏に、いつかわからない小さい頃の情景が浮かばせ、一つ一つの記憶が淡く弾けていく。      

コロナで人が死ぬ。

なんだか当たり前のことを突きつけられた気分だ。

「自分だけは大丈夫」という根拠なき自信はどこから湧いてくるのか。

そろそろ、自分自身のコロナウイルスにまつわる認識の前提を更新しなければいけないのだと痛感している。  

死と隣り合わせの私

今年はよく死を想う。
それはコロナの影響がこのように広がる以前からのことだ。

1年半以上前、私の母親は3ヶ月の余命宣告を受けた。

佐賀の実家に帰った私は、その余命宣告を共に聞くことになったのだが、どうもその時から、遠かった「死」はより身近なものになっている。母親は、幸いにして現在も生きている。死を前に生きている彼女の言葉は力強く、その背後にある気持ちの全てを聴くことはできていないが、いつでも受け取る用意はできている。
      
この一件以来、よく死について考えるようになった。

特別な人たちの死は、ついつい一人称の死へも意識を向けてしまうらしい。私自身も、つい明日に死んでもおかしくないと思うようになった。

死はいつやってくるかわからない。

それが1年後かもしれないし、明日かもしれない。
私は、ひたひたと迫ってくる死を前に生きていくことしかできない。

『100日後に死ぬワニ』のように、自分の死を眺めることができたらどうだろう。私は、あなたは、死ぬ日のことを知りたいだろうか。死ぬ日が迫ってくることを前に、どう生き方を変えるだろう。

去年書いたトランジションの本で、僧侶の松本紹圭さんと交わした対話を思い出す。

私たちはさまざまなライフイベントを受けて、悲しんだり、怒ったり、無力感を抱いたり、喜んだり、なんとも忙しい。死は、私たちの人生の大前提でありながらも、少し遠くなってしまいがちだ。

手塚治虫の『ブッダ』を読んでいると、私という存在もいのちという大きな流れの一部であり、今の肉体が朽ちても、ただ分解され、次の何かが形作られる養分になっていくようなものだ。私の死は、人生という一回切りのものに閉じることはない。
      
さらには宇宙が誕生してから138億年の流れを想像してみると、私の存在なんて、なんてちっぽけなものか。明日死のうが、1年後死のうが、100年後死のうが、ほんの小さな小さな命の終わりがあったのだということに大きな意味はないだろう。 

だから、大丈夫、大丈夫。と、言いたいのだ。
無理やりに肯定せずとも良いのに、そうだと思い込みたい自分がいる。

蝉のように生きることを取り戻す

俺も死ぬらしい。
  
自分自身がいつの間にか自分から切り離していた死は、いつでも生きているこの瞬間にびったりと張り付いている影のような存在で、生まれてこの方、一時もそれと分けることができるものではなかったことを気づく。
    
いや、そう思うようになった。そう思わずにはいられない。

悟りすました自分の考えだけでは納得できない自分は、隙間の空いたこの手で、砂浜の細かい砂を掴み取ろうとするかのように、掴みどころのない生を掴もうともがいている。

もし自分が、地上に這い出た蝉だったら何を思うだろうか?そんなことを考えたことがある。
    
去年の11月、この命を何に活かしていくか?ということを考え続けていた際、頭の中では、 UVERworld の七日目の決意がエンドレスに流れ続けていた。

7日目の決意
アーティスト:UVERworld

君は冬の夢を見て鳴く蝉。
もしその願いが明日叶うと知ったら 7日目を生きたのかい?
悲しみだけなんて 忘れる事なんて出来ないから
今は全て忘れても良いよ いつかまた 大事な事だけを思い出せば良い
 
7日で世界を創造した神と
自身の一週間前に座礁して行くイルカの群れと
週末の東京駅 毎週泣いてるあの子との7日じゃ
どれが一番長いかな?

戦争で左手を失った祖父に
死ぬ以上の悲しみが この世界に在ったか?と問えば
あると言えばあったな 無いと言えば無いがな
全てはお前次第

10代最後の日に あと一年頑張って何も変わらなかったら
もう人生ごと終わらせようと思ってた でもそれも出来なかった
きっと本当の死ぬ気の覚悟も知らず 生きてきた

君は冬の夢を見て鳴く蝉
明日こそ願いが叶う事を信じて 7日目を生き抜くんだね
なぁ 僕たちもそんな生き方をしていたいよな?
明日からでもなく 何かの記念日でもなく
どうしようもなく涙が出てしまった今日から変わっていけば行けば良い

いつも甘えた家族に包まれ
友達が100人いて 恋人が何十人いたって
満足出来ない人もいて 自らある種の地獄へ向かって行く
でも僕は違う 家族に憧れ抱いたままでも
まだ上手く友達も作れずに 恋愛に臆病なままでも
前を向いて生きている 幸せも感じている
全ては自分次第

もう 今日から死ぬ以上の悲しみは ここに無いと思って生きて行くよ
ならもう何も怖くない 誰がどう言おうと構わない
諦める必要もない 強く生き抜くよ
 
君は冬の夢を見て鳴く蝉
悲しくなんてないよ 一番大事な事は 叶うとか叶わないじゃない
欲しかった物は 此処に無い未来や過去じゃなく
その気持ちを失った時に 僕が僕じゃ無くなってしまう...
そう思える そんな生き方を
 
嬉しくて泣いてる人も 悲しくて笑ってる人にも
スローライフでゆっくり歩いても 充実感に過ぎる時を忘れていても
 
いつかきっと 僕も君も居なくなってしまう
例外無く終わっていく そこにどんな意味があるかなんて分かるはず無い
 
でも 君は冬の夢を見て鳴く蝉
7日目の夜も 夢を願う時だけは少し強くなれたんだね
なぁ 僕等もそんな生き方をしていような
その最後まで 忘れたくないよ
夢を願う時 少し強くなれる僕らの日々

歌詞はこちらより。

私は、蝉のようなものだ。

冬の夢を見ている蝉のように、ほんの少し先の未来のことを頭を捻って考え、未来を作るんだ!と意気込む。
        
地上に出て、いったい何日目を生きているのかわからない。もしかしたらもう6日目、終盤なのかもしれないし、延命治療の技術を駆使してとてつもなく長く生きるのかもしれない。蝉は何日目だと意識しないかもしれないが、私はいつ死ぬのだろうということを頭の片隅で考え続けてしまう。未来という概念を作り出し、来るべき死を恐れるのは、人間くらいなのかもしれない。
    
結局今の私にできることは、今を生きることくらいだ。
  
冬の夢を見て鳴き続けることも、夏の今のありありとした実感を味わって今を生き切ることも、どちらも私にはとても愛おしい。

生きている間くらいは懸命に鳴きたいのだ。そんな気持ちが戻ってきている。悟りすました自分自身は消えることはないが、生に執着してしまうくらいでちょうどいい。

何を残していけるかわからない。ちっぽけなことしかできないかもしれない。それでも、生きることをやめずに、鳴いていたい。
  
自分自身がこの半年間で、どこかに落っことしてきてしまった生きる力を、少しずつ拾い集めながら、人生の次のフェーズの波を作り、波に乗っていこうと思う。

コロナと共に、死と共に生きる

コロナの影響で、多くの人たちが不安を感じているのではないかと思う。
          
それは潜在的には死ぬかもしれないことへの恐れを映し出しているのかもしれない。
        
あなたは何を想って生きるのだろうか?
死んでしまうということを前に、どう生きるだろうか。

明日死ぬかもしれない。それは生きていることを彩る祝福の雨となって、今という瞬間に降り注ぐのだろう。
  
7日目を迎える蝉は、今日も鳴く。その瞬間を生きている。

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