「硝子の鳥籠」 第4話 予兆
「やっぱ生理?」
翌朝。洗面所で顔を合わせるなり、百香が尋ねてきた。
「は?」
「ぼーっとしてんじゃん。それに、きの……ぶっ」
昨晩の誘いを断ったことを言おうとしているのだと悟った千影は、蛇口についたシャワーヘッドを使って百香の顔に思いきり水をかけてやった。
無造作に下ろされた髪をはじめ、趣味の悪いTシャツも床もびしょ濡れだ。
「つめてえ……何すんだよ!」
「黙れ。性欲の権化」
「ああ?」
「ホント迂闊。誰かに聞かれたら面倒じゃない」
「それを言うなら、お前もな」
という会話をしつつ、関係を知られたところで問題はないことをそれぞれに理解している。
そもそも血のつながりはないし、宿命のせいで互いに他の相手と通じ合うことはできないのだ。ここで発散させることで気が済むのなら、どうぞご自由にという考えに至るだろう。
もちろん、使用人はもとより、親に情事を見られるなんてまっぴらごめんだが。
「めんどくせぇ……」
百香がしゃがみこみ、肩にかけていたタオルで素直に床を拭きはじめた。それを一瞥し、千影は歯を磨き始める。
脳裏に浮かぶのは、まっすぐな瞳でこちらを見つめる柊人の顔だ。
自分があの人に想われているなんて、夢であってほしい。
「あのさ」
物思いにふけっていると、いつの間にか床掃除を終えた百香が、鏡越しにこちらを見ていた。
彼は珍しく、歯切れの悪そうな顔をしている。
「……朝飯……」
「あさめし……?」
「今日は一緒に食わねえ?」
思わぬ提案に、千影はきょとんとした。
たしかにいつも「あんたと食べたら食事がまずくなるわ」というポーズを取り時間帯をずらしているが、それについて言及されたのは初めてだ。
「何、急に」
「昨日、先生から釘を刺された。義母さんがさ、短冊に『娘たちが慕い合い、支え合えますように』って書いてたらしい」
千影の母親は、ひと月前に病で命を落としたばかりだ。祓魔師の家系に属する者の死因は、悪魔の呪いか、老齢よりも病死や事故死が圧倒的に多い。
そして先生というのは早瀬川家の主治医のことで、たしかに百香の定期検診は昨日だったと記憶している。
この島では毎年七月七日に七夕祭りが行われ、島民たちは願いを記した短冊を大きな笹の木に吊すのだが、その中で一番強い思いが込められたものが叶うといわれているのだ。
今は六月。母は当日まで生きられないかもしれないと思い、前もって短冊を準備し主治医に託していたのだろう。
百香は、亡くなってからちょうどひと月の今日くらいは、彼女の願いを叶えてあげようと提案しているのだ。
(そうよね。お母さんのこと、あなたも好きだったものね)
「……わかった」
その後、二人は使用人たちに何事だと眉をひそめられながら、母の遺影を食卓に運び質素な和食を口に運んだ。
協会幹部という立場上忙しい父がいないのはいつものことだが、昔はここに兄たちもいた。冷静と情熱にはっきりわかれた正反対の二人だが、どちらも祓魔師としての腕はたしかで、現在は東京と大阪で重宝されているらしい。最後に会ったのは、先月の、母の葬儀だ。
今目の前で黙々と白米を口に運ぶ百香は、火葬場から立ち昇る煙を見上げて静かに涙を流していた。兄たちに肩を抱かれ、泣き笑いしながら歩き出した彼の背中を見て、時が流れたことを実感したのだ。
この家に来たとき、百香はなかなか心を開こうとしなかった。それが今では、家族の一員として受け入れられ、本人も受け入れている。
――もたもたするな。早く殺してしまえ。
「……うるさい。わかってる」
「は? 俺、何も言ってねえじゃん」
口に出してしまっていたらしい。
千影は答える代わりに、「醤油とって」と命令した。文句を垂れつつ素直に応じるあたり、百香はやはりまだまだ子どもだ。
* *
今日は昨日にも増して、雲ひとつない快晴だ。
水色のブラウスに黒いタイトスカート、さらに黒のストッキングを合わせた千影が、もう少し明るい色を選べばよかったと思うほどの陽気である。
(フットネイルも黒なのよね……)
「お姉ちゃん、もう少し華やかな格好すれば? いつも寒々しい色ばっかりじゃん。ババ臭いよ」
「余計なお世話」
「せっかくアドバイスしてあげてるのに、可愛くないなあ……って嘘。お姉ちゃんは世界一可愛いよっ」
「っ! やめて。転ぶところだったでしょ」
思いきり睨み付けてやると、腕を組んだ百香からニカッと悪戯っぽい笑顔が返ってきた。それを見た瞬間、胸が締め付けられる。
(本当に、妹ならよかったのにね)
急に泣きたくなって、千影は空を仰ぐ。
「ああ、ムカつく。……ムカつくくらい青空」
「何それ。ホントひねくれてる」
「うるさい。大嫌い」
「俺も」
目が合うと、百香は晴れやかに笑った。
* *
「おはようございます」
「おはようございます、早瀬川先生」
職員室に入ると、先に登校していた柊人がすぐに微笑みかけてくれた。彼に続いて、挨拶がまばらに返ってくる。
いつも通り爽やかな笑顔の柊人を見ていると、昨日のことは夢だったのではないかと思ってしまう。
幸いにも、千影の席は彼の死角だ。椅子を引いて腰掛けると、ひとりでに深いため息が漏れた。
「先生。これどうぞ」
机に、個包装のチョコレートが置かれた。隣の席の青山からだ。
見慣れた二本ラインのジャージ姿である彼は、今日も今日とて白い歯が際立ついい笑顔をしている。
寝起きが良さそうだなという感想を抱きつつ、静かに微笑み返した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。そうだ、今夜一緒にKARIYAN、どうです? 奢りますよ」
「あー……すみません。せっかくなんですけど、昨日行ったばかりなんです」
「……そうですか」
子どものようにわかりやすく落胆した青山が、「じゃあまた次の機会に」と明るく切り替えたところで、白髪の学園長が入室してきた。
「職員会議でもないのに、珍しいですね」
「ええ。……何かあったのかしら」
神妙な面持ちをしている気がして、胸がざわつく。
他の教員も同じだったようだ。張り詰めた空気の中、学園長は上座に立ち皆を見回した。
「おはよう。協会から『悪魔の動きが沈静化している』との伝令が届きました。嵐の前の静けさとも思える、ということです。結界の点検は月一回でしたが、念のため当面は毎日行うこと。今日は早瀬川先生、弓月先生にお願いします」
はい、と幼馴染二人は同時に返事をした。
七十数年前。学園創設時に協会の重鎮らが張ったという結界は、守り石という水晶によく似た石に力を込め、要となる地点に置くことで展開されている。
点検というのは、守り石にヒビが入っていないかどうかを確認するだけの簡単な作業だ。
島全体にも同じ結界が使われており、こちらは早瀬川家当主である父や実績のある島民によって点検が行われている。
ちなみに、認識できない傷があった場合でも、百香がいれば大事には至らない。彼には結界が目視できるため、綻びがあればすぐにわかるのだ。
そのため、三ヶ月に一度は百香と学園長、島に関しては父が同伴して点検を行っている。
数代前の師団長の尽力によって、政府直轄であったこの島が協会の所有になってから約八十年。一度として悪魔の侵入を許していないのは、歴代の要の君が確認を怠らなかったからなのだ。
祓魔師の卵を育てるこの島は、悪魔に対抗するための要。陥落は決して許されない。
「どちらにしろ、食事は無理でしたか」
青山が苦笑し、授業の準備を始める。
千影も彼に倣いつつ、柊人と一緒なのかと物憂げに息を吐き出した。
――悪魔については、深く考えなかった。
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