「硝子の鳥籠」 最終話 待ち望んだ結末(1)
放課後。
クラスを受け持たない千影と柊人は、教室から漏れ聞こえるホームルームの声を聞きながら廊下を歩いていた。
結界の点検をするためだ。
「分散した方が効率がいいよね。僕が北校舎に行ってくるから、千影ちゃんはこのまま南を頼める?」
昨日のことがなかったかのように、柊人が話しかけてくる。
彼の中では、本当に区切りの付いたことなのだろう。だったらこれ以上気にするのは失礼だと、千影も気持ちを入れ替えた。
「わかった。中庭は私が行くから、体育館お願いできる? あそこ、脚立を担いでギャラリーに登るのが一苦労なのよね」
「オーケー、任せて。それじゃあ、またあとで」
柊人がふわりと微笑み、踵を返す。
同時に歩き出していた千影は、やがて静かに足を止め、後方を振り返った。
皺のないシャツに包まれた背中を見た瞬間、ふいに思い出が蘇る。
学園に入った年、十五歳の夏だ。
兄二人、百香、そして柊人と一緒に七夕祭りに行った。満天の星空の下、みんなで短冊に願い事を書いたのだ。
――自由になれますように。
それが、千影の願いだった。目立たせたくなかったため、短冊がぎっしり結びつけられているあたりにあえて向かった。
神に届くような気がして、月明かりがちょうど綺麗に当たる位置を選んで笹に短冊を結びつける。ほっと一息ついたとき、背中から声をかけられた。
『願い、叶うといいね』
柊人だった。ぎょっとして、千影は思わず後ずさったものだ。
『……見た?』
『どうかな』
『見たんだ。……誰にも言わないでね』
『わかった』
柊人は、千影がどうすれば宿命から逃れられるのか知らないはずだ。それなのに、何かを悟ったように寂しげに微笑んだ。
それが心苦しく、千影は話題をすり替えた。
『柊人君は? なんて書いたの?』
『千影ちゃんの願いが叶いますように』
あのときは、はぐらかされたのだと思った。
けれどきっと、本当だったのだろう。
あれほど昔から、彼は想いを寄せてくれていた。
「ありがとう」
呟いたところで、柊人の背中がちょうど見えなくなった。
千影は瞳を閉じしっかりと開くと、今度こそ歩き出した。三階から順に回ろうと階段に向かう。最初の目的地は美術室だ。
南校舎の点検地点は、一階調理室、二階家庭科室、三階美術室。それぞれ天井の裏に石が貼り付けられている。もう一カ所千影が担当することになった中庭というのは、初代祓魔師夫婦の石像のことだ。こちらは、内部に石が安置されていた。
十字学園に部活動はない。しかし、生徒たちが自主的に作った同好会は存在していた。放課後の美術室にはいつも芸術好きの生徒たちが集まり、画集を広げたり彫刻を作ったり、キャンバスに自由に絵を描いたりしている。
けれど、到着したときには、狙い通り誰もいなかった。まだホームルームが終わっていないからだ。
椅子を一脚引き出すと、静まり返った室内に、ガタンという音が寂しく響いた。千影はそれを首だけの彫像が並んだ棚の手前まで運び、靴を脱いで座面に足を乗せる。
そうして天井に腕を伸ばし、慣れた手つきで小さな隠し扉を開いた。扉の裏面に霊符を使いぴたりと貼り付けられているのは、水晶によく似た透明の石だ。手のひらに収まるほど小さい。これが厄介なのだ。
目をこらし、傷がないか入念に確認する。異常はないように見受けられた。しかし不安なので、もう一度……。
「……よし」
と、隠し扉を元に戻して椅子から降りたときだ。
スカートのポケットに入れたスマートフォンが小さく震えた。取り出し確認してみると、柊人からメッセージが届いている。
”言い忘れてた。今日の星座占い、山羊座が一位だったよ”
”ラッキーアイテムは拳銃。心のままに行動すれば、求めていたものが手に入るでしょう。だって”
彼は占いの類いが好きで、千影はたしかに山羊座である。そして、回転式拳銃を身の内に仕込んでいる。
学園を卒業したときに授かった、千影の祓魔力でのみ起動する特殊な武器だ。弾丸は、悪魔、もしくは悪魔に憑依された人間にしか効果を持たない。
生徒一人一人に合った武器を担任が選び、卒業証書の代わりに授与するのが十字学園の卒業式だ。みな、それを相棒に島を巣立っていく。
ちなみに、弾丸は基本的に装填不要。自分が持つ祓魔力の分だけ発砲できる。また、拳銃自体も強く思い描くことで具現化できるため、普段は手ぶらでいい。なんとも便利な道具である。
しかし、ここは銃刀法の敷かれた日本だ。一般人に拳銃は馴染みがないものだろう。占いは、よくわからないが柊人のジョークに決まっている。
”ラッキーアイテムが物騒すぎ(笑)”
苦笑しながら返信すると、千影は椅子を元の場所に戻して美術室を後にした。ホームルームが終わったようで、まばらに現れる生徒たちと挨拶を交わしながら階段を下っていく。
生鮮食品が手に入りにくいため、料理クラブは存在しない。そのため無人の家庭科室でも滞りなく点検を終え、一階へと。
調理員と談笑しつつ、ひとまず南校舎の持ち場を終えた。
残るは中庭だ。点検がてら石像を磨くのがしきたりであり、生徒たちにとっては見慣れた光景である。
掃除用具入れから雑巾を取り出し、外廊下の入り口に置かれた教員用のサンダルに履き替えた。
よく手入れされた芝生の上をしばらく歩いた頃だ。
「先生……っ!」
悲鳴じみた声が飛んできた。青白い顔で駆けてきたのは、ジャージ姿の女子生徒だ。上履きのままで勢いよく飛びついてきた彼女は、ひどく震えていた。
何か良くないことが起きたに違いない。
不吉な予感に、身体が強ばる。
「一体どうし――」
「っ、王子先生が! 死んでるッ!!」
千影は凍り付いた。
まとまらない頭で、なんとか口を開く。
「……や……やだ。何を言って……」
彼女は体育館から出てきたようだった。
開け放たれた扉の向こうに駆け込んでいく教員が二人。彼らを呼びに行ったと思われる女子生徒たちは、身を寄せ合い青ざめた顔で周囲を見回している。
通りがかった男子生徒が、何事かと声をかけた。
「……悪魔だよ……」
「え」
「だって! 先生、干からびたみたいに……っ、皮だけになってた!」
そこまで一気に言うと、女子生徒はオエッと背中を丸めた。吐瀉物が落ちる音を呆然と聞いていた千影は、ハッと空を見上げる。
うっすらと走っている線は、飛行機雲などではない。
亀裂だ。結界が破られた。
要の君ではない千影に目視できるのほどなのだから、状況は最悪だ。
「……か……百香っ!」
千影は叫ぶと、身を翻し駆けだした。
同好会に所属していない百香は、いつもすぐに下校する。まだ校内にいるとすれば、昇降口の付近である可能性が高い。
手近な入り口から室内には入らず、校舎を壁沿いにぐるりと回り込んで正面玄関を目指す。片側の扉が開けられたそこに駆け込むと、人影はなかった。
(まだ教室にいるのね……!)
千影はサンダルを脱ぎ捨て血相を変えて廊下にあがった。ストッキング越しの足裏に床のひんやりとした温度を感じつつ駆けていく。白衣の裾を揺らしながら角を曲がると、視界が広がった。
すぐさま異変に気づく。
一階廊下に立つ生徒たちが、ゆらゆらと左右に揺れているのだ。十人はいるだろうか。振り子のように、同じ速度でぐらん、ぐらんと――。
生徒たちの動きがピタリと止まる。
一斉に振り返った彼らの顔は、狂気に歪んでいた。目は焦点が合っておらず、だらんと垂れた舌からは涎が滴り落ちている。
千影は愕然と呟いた。
「――悪魔」
正解と言わんばかりに、生徒たちが口を大きく開けて笑い出す。
「「ケケケ……ククッ……ハーハハハッ!」」
千影は、転がるようにしてすぐ前方にある階段を駆け上がり始めた。必死で足を前に進めながら、拳銃を具現化させ右手にしっかりと握る。
先ほどの悪魔たちが追ってくる気配はない。おそらく、一階の一年生たち全員を餌食にするつもりなのだろう。
戦闘音もたしかに聞こえていた。担任たちが、必死に応戦しているのだ。
――殺せ。絶好の機会だ。
ドクン ドクン ドクン……
耳の奥で響く声と、早鐘を打つ心臓の音が重なり合う。
(こんなんじゃ真っ先に殺される)
唇を噛み踊り場に足を踏み入れた瞬間、影が落ちた。深緑色の詰め襟を着た、男子生徒だったモノが二階から飛びかかってきたのだ。
鋭利な牙が、大きく開かれた口から覗いている。
「っ!」
千影は素早く引き金を引き、悪魔の急所である心臓を狙い発砲した。
がっしりとした身体が床に倒れ込んだのに巻き込まれ、千影も思いきり尻餅をつく。下半身に男子生徒が覆い被さっている状態だ。
(……くそ、失敗した!)
心臓を打ち抜けなかったのだ。そのせいで、傷が修復してしまった。
身体が密着している部分に血の生温かさを感じられないのがその証拠だった。
「痛ッ」
焼きつくような痛みが全身に走った。悪魔が左のふくらはぎに牙を立てたのだ。
このおぞましい種族は、人間の血肉を食うことで力と知識を身につける。繰り返すと、憑依した人間になりすまして堂々と生きることができるほどまでになるのだ。
そうして親しくなったものを食らいさらに力を付けていくため、危険種として協会は警戒している。
「この……!」
未だ左のふくらはぎに食らいついているソレを蹴飛ばしてやろうと右脚を曲げると、顔が上げられ目が合った。
瞳が真っ赤に染まっているのは、悪魔に憑依された者に現れる初期症状だ。
「せんせ、うつなんてひどいジャン」
「――っ」
(この子は、いつも元気に挨拶をしてくれた。だけど、宿題を忘れてはあれこれ言い訳してきて……何度も叱ったわね……)
胸が燃えるように熱くなり、視界が潤む。
「その声を使うな……ッ!」
千影は痛みで消えてしまっていた回転式拳銃を再び呼び出すと、男子生徒のこめかみに弾丸を撃ち込んだ。
「があ……!」
身体が離れた。
大きくのけぞった男子生徒の心臓を今度こそ狙い、迷いなく発砲する。
「あああああっ!」
弾丸を受けた身体から黒い煙が立ち上り、それはやがて天井に吸い込まれ消えていった。男子生徒は、ドサリとうつ伏せに倒れる。
痙攣している彼の、痛々しく見開かれたままの瞳をそっと手のひらで伏せた。
「……どうか、安らかな眠りを」
悪魔に精神を乗っ取られた人間は、死ぬことでのみ解放される。人を手にかけた場合地獄に落ちるため、その前に息の根を止めることが救いになるのだ。
この少年は身体が残ったが、長く悪魔に憑依されていた人間は――。
思考が止まった。
(……まさか、そんなはず……)
一気に青白くなった千影は、足を止めている場合ではないと立ち上がった。踊り場に広がっていく真っ赤な血を踏み、再び駆けだす。
どんな地獄絵図が広がっているのかと思いきや、二階廊下は不気味なほど静まり返っていた。
「っ、早瀬川先生! ……なんだこれは! クソッ!」
背後から、鬼気迫った声が聞こえてくる。それが青山のものだということ、そしてどうやらここに招かれたのは自分一人だということがわかった。
「戻ってください! 頼むから……っ! 危険すぎる!」
(百香はこの先にいる)
確信に近い予感が胸に宿る。
千影はゴクリと唾を呑むと、毅然と前を向いた。