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「天使のいない世界で」第5章 身勝手な創造主(4)

 見間違いなどではない。勇者の体が、黒い靄のようなものに包まれている。

 吐息もかかりそうな距離まで、顔が近づく。
 その肌はまるで若者のように艶やかで、唇も不自然なほど血色がいい。異様なほど生命力を感じるのだ。そして、香水の強い香りに混じって、微かに臭うこれは……天界で悪魔について学んだときに嗅がされた……標本サンプルによく似ている。

(まさか)

「――悪魔、なの?」

 問いを受け、ひゅうっと楽し気に口笛を吹いた――勇者ブルネットだったモノ。

「正解。正しくは、魔王だがな」

 魔王――。

 打ち滅ばされたはずの諸悪の根源がそこにいるという恐怖よりも、目の前にいるはずのこの人はどうなってしまったのか――その一点に意識が向く。
 不吉な予感に、吐き気がこみあげてきた。

「……それ、じゃあ……ブルネット、さんは……?」
「ああ、とうの昔に消え失せたわ」
「消え失せ、た……」
「奴の記憶は、今なお私の中にあるがな。愛妻家だという、民衆どもに好意を抱かせるための陳腐な設定も、そこから得たものだ」

 魔王がくすりと笑う。

「それにしても、あれは哀れな男だったな。私を殺すことができるなどと創造主に嘘を吹き込まれ、ただの鉄くずを渡されたのだから。……『救いの剣』だったか? 貫かれた瞬間、あれを媒介にして体を乗っ取ってやったわ。あの日我が同胞たちが消滅したのは、私が死んだと信じ込ませるためのフェイク。まんまと引っかかるとは。人間とは、実に単純な生き物よ」

 おぞましい笑い声があがった。

「剣は儚くも光の粒子になって消えた、人間どもは創造主に見捨てられたのだろうなあ。ああ、最初からそうだったか」

 そう語る楽しげな声を、メイは逃げ出すこともせず呆然と聞いている。

 膝の上にぐったりと横たわるジュエルを、力なく見下ろした。
 大きく裂け目の入ったシャツの腹部から流れ出る血が、まるで彼の心が流している涙のような気がしてならなくて。目を見開き息絶えていたステラが、本当に哀れでならなくて。
 体中の血が沸騰するような、強い怒りがこみあげる。

「私が悪魔だと気づいた褒美に、いいことを教えてやろう。二年前、翼だけを集め天使の肉を食さなかったのは、正体を勘付かれないようにするためだ。食料にできるはずだった天使と聖職者どもの肉体をなくなく教会ごと燃やした甲斐があって、私が『勇者』だと、馬鹿な人間どもは信じて疑わなかった。おかげでこの二年間、不用心な女どもや兵士どもを食らい、集めた羽根を食らい、私は力を蓄えることができたのだ」

 魔王が、もったいぶったようにさらに声をひそめる。

「じきに、地底にてこのときを待っていた我が同胞たちを呼び寄せる。……ヒヒ、人間界は血の海……実に痛快だ! これ以上心躍ることはない!」

(せめて、私に光の力があれば……っ) 

 目の前の「これ」は、悪そのものだ。決してこの世に存在してはいけない。
 ここで滅ぼさなければ、また悲劇が繰り返される。

 しかし、純白の翼を授かったとはいっても、メイは力を高める修行をまだ受けていないのだ。悪魔を退け弱体化させるなんて、できっこない。やり方自体わからないのだから。
 魔王もきっと、メイが未熟で何の力も持たないことに気づいている。だから、目の前でこれほど寛いでいられるのだ。

 悔しくて涙が出そうになったとき、不思議な空間で出会ったもう一人の勇者の姿が蘇った。

(……あの人はきっと、本物のブルネットさんだったんだ。魂だけの姿になって、ずっとあそこで誰かに会える日を待っていた。……エルさんを守ってほしかったのかもしれない。だから、人間界に戻るわたしに剣を――)

 あれは、『白百合の扉』によく似た意匠をしていた。

(『扉』は創造主が生み出したもので……)

 すうっと、頭が冴えていくような、不思議な感覚が押し寄せてくる。

 魔王は『救いの剣』は儚く消えたと言っていた。しかし、本当は持ち主……姿を失ったブルネットの元に向かっていただけだったとしたら――?  

(あれは、『救いの剣』なんだ……! ブルネットさんは、わたしに魔王を討ち滅ぼす力を託してくれた!)

 魔王は、あれに自分を滅ぼす力はないと言っていたが、もう一度試してみる価値はある。

(――今度こそ、わたしがみんなを助ける) 


 ネリネ村で親切にしてくれた店長、常連客、村のみんな。ビビアナ半島の宿屋であたたかな料理を振る舞ってくれた女将。
 二年間、各地で出会った心ある人間たちの顔が鮮明に蘇る。

 そして、ジュエルも。

 手首についたままのブレスレットを彼に握らせようとして、やめた。
 膝の上で横たわる彼は、まだあたたかい。魔王を討ち滅ぼしここから急ぎ連れ出して、医者に診せれば……きっと……きっと助かる。ブレスレットを渡すのはそのときだ。ステラの言葉を伝えなければ意味がない。

(だから、まだ死ねない。絶対に、生き延びてみせる)

 ずっと、無意識に死に場所を求めていた。けれど今は、生きたいと強く願うことができる。

(エルさんともう一度、話がしたい。――一緒に生きていきたい)

 未来への羨望が、心を強くしてくれているようだった。
 メイは素早く視線だけを動かし、『救いの剣』を探す。幸いにも、走ればすぐ手が届きそうな距離に転がっていた。

『剣でも構えてるつもりか?』

 先ほど、兵士にあざ笑われた。
 あのときは気にしている余裕もなかったが、『救いの剣』は人間にも……魔王にも見えていないのではないか。だから誰も回収しようとしない。 

「どうした、恐ろしくて声も出せないか? 可哀想に。……今、翼を奪って楽にしてやろう。そのあとで、じっくり味わってやるからなあ」

 魔王が舌なめずりをして、緩慢に立ち上がった。メイもそれに倣うようにして、浅く呼吸をするジュエルをその場にそっと横たえて立ち上がる。

「……わかりました。どうか、手早く……苦しまずに済むように、お願いします」

 従順なふりをして、剣を構えた勇者に背中を向け――一気に駆け出した。あと少し、あと少しで『光の剣』に手が届く。

「フハハ、逃げられるはずがないだろうに。撃て!」

 まさに死の宣告だ。魔王の声が、メイの背中へと無慈悲に飛んでくる。
 間に合わない。
 雨のように降り注ぐ矢に貫かれる未来が、一瞬にして脳裏に浮かんだ。

(死――) 

「……っ!」

 突然、強い力で背中を押される。処刑台の床にうつ伏せに倒れたメイへと、影が落ちた。
 どういうわけなのか、痛みは一向に襲ってこない。
 上体を起こし、座り込んだままでおそるおそる振り返ったメイは言葉を失った。

 ポタ、ポタ……真っ赤な血が、頬に当たっては滴り落ちていく。
 見上げた先には、瀕死のはずだったジュエルがいた。

 両手を広げ不自然なほどしっかり立った彼は、目が合うと泣き笑いのような表情を浮かべる。

「……よかった、無事、で……」

 がくん、と彼はメイに覆い被さるようにして崩れ落ちた。
 体中に矢が刺さっている。たくさん、刺さっている。

「……どう、して……?」
「さあ、な」

 悪戯に笑うと、ジュエルは静かに瞳を閉じた。

「嘘……。嘘、でしょう……?」

 どうしよう。血が止まらない。
 震える手で傷口を押さえてみるけれど、指の隙間からどんどんあふれ出していく。それに、塞がなければいけない穴が多すぎる。

「……エルさん……目を開けて? ……ねぇ! お願いだからっ!」 

「恋人だったのか? 涙ぐましいねえ。……さあ、次はお前の番だ」

 顔を上げる間もなく、魔王が剣を振り上げた気配がした。

「――っ、いい加減にして!」

 怒りもあらわに右手に握った『剣』で払いのけようとした瞬間、手首に重い衝撃が加わる。

 パリン! 
 何かが砕け散った音が響き渡った。
 紫色の石――ステラがライラック家のしるしとしてブレスレットに編み込んでいたものだ。

『家族三人おそろいなんです。離れていても繋がってるっていう想いを込めて作ったもので。いつか渡したいなって……そう思っているんですけど』

 懐かしい声が、まるで啓示のようにどこからともなく聞こえてくる。もう一度剣を振りかぶろうとしていた勇者の動きが、不自然に止まった。



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