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今だからわかる、編集長の言葉

出版社に勤務していたのは、もう20年近く前だ。

しかし、今でもあの頃の習慣や考え方は染み付いていて、ふとした時に思い出したりする。

「定規を使うな」

そんな編集長の教えも、その一つだ。

20年近く前の編集者時代

出版社の編集部というのは、戦場のような激しさや厳しさ、そこを乗り越えた時の安堵感、みたいなものを味わった場所だった。

世間で名の知れた大手出版社だったから、編集部に入ることができた時は嬉しかったが、入ってみるとかなりの激務だったのだ。

ダメ出しと徹夜の連続

企画を立てて会議で発表し、案が通ればラフを書いて、デスクや編集長に通す。

ラフの段階でも何度もダメ出しをくらうが、工程が進んで行って、初稿や再稿の段階でも、編集長にひっくり返されたりする。

理不尽だな、と思いながらも、徹夜してやり直して「校了」のサインもらい、なんとか締め切りに間に合わせる。

ゲラやCD-ROM(古っ)を入れた封筒をバイク便に預けてやっと仕事が終わる。

スタバに行ってコーヒーを飲むと、徹夜明けにもかかわらず妙に元気だったり。

今振り返ると、若さ故にこなせた毎日だったのかな、と思う。

2023年の現在、Webへ移行

2023年の現在、僕の仕事は紙媒体からホームページやSNS、Kindleなんかの電子媒体というのか、Webへと移行してしまった。

多くの雑誌が休刊・廃刊している(「Webへ移行」と言いながら、実質的には廃刊だったりする)という、世の流れに身を任せていたら、僕のキャリアも自然に「Webへ移行」してきたのだ。

今でも思い出す言葉「定規を使うな」

そんな現在も時々、思い出す言葉が、冒頭で述べた「定規を使うな」だ。

正確には、

「定規を使うな。定規を使っていると、定規がなければラフを引けない編集者になるぞ」

そんな教えだった。

企画を立てたり、ラフを書く時、新米編集者だった当時の僕は、線を引く時、定規を使っていたのだ。

その方がキレイだし、デスクや編集長、デザイナーさんなんかに見せる時、理解してもらいやすいだろう、と思っていたのだ。

編集長には何度も「だから言っているだろ!定規を使うな!」と何度も叱られていくうち、フリーハンドで書くようにはなったものの、本当の意味で理解したのは、出版社を退職して、ずいぶん後のことだった。

Webメディアと紙媒体の違い

Web(オンライン)上の制作物というのは、数値化できることが多かったり、紙媒体に比べて、理路整然としている。

そりゃそうだ。

文章も写真もデザインも、その後のアクセス数なんかもデータ化されて、分析できて、ABテストを繰り返して随時改善されたりもする。

ユーザー(読者や視聴者)の反応が正義なのだ。

もちろん、出版社が発行する、紙媒体も読者の反応が正義ではある。

しかし、どうしても感覚的、属人的な手法、制作体制になるのではないか、と思う。

売れた部数や、読者アンケートから知れる反応は、Webメディアが取得するデータに比べると小さいのだ。

定規を使わない=自分自身の線を引く?

しかし、だからこそと言うべきか、出版社の編集部にいた頃の、いろいろな教えは、現在の僕にとっては、大切な教えだ。

自分がどんな出版物を作りたいのか、強い気持ちがないと形にならないし、何かを作って世に出すということは、わからないこと・知らないことばかりの状態から作るからこそ、創作になるのだと思う。

「定規を使うな」は、そうした教えの象徴的な言葉として、現在の僕にも、影響を与えている。

様々なデータやツールを使って制作するのは当たり前であって、その前提として、定規を使わず、フリーハンドで描ける力、があった方が良い。

定規を使うと、自分自身の線を引けなくなる。

そんな風に、捉えている。

ChatGPTには書けない線

出版不況と言われて久しい。

様々なコンテンツがWeb上で作られ、今後はAIによって表現がまた変わっていきそうだ。

AIによって、正解のある文章や、制作物を作ることは簡単になる。

しかし、心の底から人を楽しませたり、泣かせたり、感動させたりする制作物というのは、人間のフリーハンドを必要とするのだと思う。

ChatGPTが書けるのは正確な直線や手書き"風"の線であって、それ以上にはならないのだ。

誰かの、何かの支えを使うのではなく、フリーハンドでこそ、創作は生まれる。

だから、こうして書きながら、自分に言い聞かせる。

「定規を使うな」と。

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