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やはり言葉を知っていることと、会得の間には崖があるらしい

ここ数年で最大の衝撃は、ある場の『自称ファシリテーター』さんが、

「どうしてもっと
 ファシリテーターが安心して進められるように動いてくれないんだ!
 進行の妨げになるような、好き勝手な発言されるのも困る!

と、マジ切れした場面に遭遇したことです。

念のため補足しておくと、その場の参加者の皆さんはむしろたいへん協力的で、主体的によい場にしようと、ちゃんとテーマの範囲内で闊達に発言していました。参加者同士のリスペクトも醸成されていて、だれかを意図的に傷つけるような好き勝手もまず飛び出さない。しいて言うなら、ちょっと油断すると行き過ぎて『なれ合い』にならないか心配かな? というくらい。

むしろ願ってもないくらいの場の動きだったと私は思うのですが、どうやら『先頭に立ち、自分が舵を取り、颯爽と進める』のがその方の言語における『ファシリテーション』だったようで。

いや、もちろん参加者の段階、場面によっては、一見そのように見える(かもしれない)動きが、必要な瞬間もあるかもしれませんが……。せっかく場をつくるなら、むしろずっとそれでは困るよね、というのと。

むしろ、どうやったら『好き勝手な発言』を引き出せるか。衝突を恐れないな『安心安全な場』にできるか…と考えるのがファシリテーターだと…思っていましたが、それを真正面からぶつけるのも違うような気もして。

ちなみにその方は『心理的安全性』とか『健全な対立』という言葉は、むしろ一生懸命勉強している様子すらありました、それだけに、不思議でした。言葉を知っていることと、会得の間には崖があるということでしょうか…。

あの時、どうすればよりよい選択だったのだろうなぁ…。

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