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小さな物語に流れる大きな時間

『百年と一日』 柴崎友香

例えば死んだ祖父のことを人に伝える時、どのように語るだろうか。どこで生まれ育ち、職業は何をしたか、そしてそれに付随するエピソードをいくつか散りばめるのではないか。人でも土地でもとにかく今この場所から遠くのことを僕たちは「要約」して誰かと共有する。当たり前なことであるが、本人にとって重要なことが語られずも、時間と場所を超え見知らぬ誰かに自分のことが簡略化され伝えられてゆく。

『百年と一日』は三十三の掌編集で、物語の冒頭それぞれに、あらすじのような、しかしタイトルとしては長いものがついている。例えば、「二階の窓から土手が眺められた川は台風の影響で増水して決壊しそうになったが、その家ができたころにはあたりには田畑しかなく、もっと昔には人間も来なかった」といった感じだ。その後に続く本編もタイトルの内容に最低限の肉付けをした形で語られ、長くても十ページに満たない掌編群が続いていく。
この掌編たちを元に物語の密度を増して短編小説に仕上げた物や、中編や長編のスケッチとして発展していく物などを柴崎のこれまでの作品を振り返れば読んでみたい衝動にも駆られるが、反対に長くなることで損なわれる点がある。それは「時間の飛躍」である。
例えば前述の「二階の窓から~」では、台風で氾濫寸前の川沿いに住む住人の顛末から、十数年前に越してきた当時の回想、そこから百年前の話、最後は人間がいなかったころの土地の雰囲気まで暴力的な加速度で時間が遡る。中編小説以上の長いものでは「時間」を丁寧に描くことで読者がそこに流れる時間に身を委ねながら読みすすめることもできるが、この掌編群は、時に強引な飛躍で時間を推し進める。それは昔話などの伝承文学のように理路整然とした解釈が出来ぬ、目眩に似た魅力を感じる世界が現れる。
不思議な展開は土地や時間の飛躍によるものだけではない。いるはずのない人を見かけたり、理由もなく消える人もいたりなど、説明のつかない物語もある。と同時に家族群像や友人との関係性など現実に近い物語もあり、三十三の掌編にタイトルの形式と短い本文以外に共通点は見いだせない。
しかし、この共通項の無い多様な物語と、場所や時間を要約しての語りが、有史以前よりずっと続いてきた人間の営みそのもののように感じられる。誰もが人生という自身が主役の物語を持っているが、この小さな物語たちを前にした時、世界という大きな劇場の一人であることを思い知らされる。

もう一つ。この本を手にとったなら、どれか一つでも冒頭のタイトルを伏せてから読んでいただきたい。読み終え、改めて目にするタイトルが、ただ起こったことを淡々と要約できる事実に、この世界の儚い成り立ちを何か感じるのではないだろうか。



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