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『有り難う』

小さな頃から特別な位置づけの言葉『有り難う』、合掌と共にするのが
私個人の習わしです。。
こんなご時世だから今日は改めて向き合ってみる事にました。

そもそも『有り難う』の語源は『有り難し』といい、
『有る』事が『難い』むずかしいという
仏教に由来した言葉とされていて、
そしてそれを表すこのようなお話があります。

あるとき、お釈迦さまが阿難(あなん)という弟子に、
「そなたは人間に生まれたことを、どのように思っているか」
と尋ねられました。

「たいへん、よろこんでおります」
阿難がそう答えると、お釈迦様が、重ねて尋ねられました。

「では、どれくらいよろこんでいるか」
阿難は答えに窮します。

すると、お釈迦様は、一つのたとえ話をされます。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その亀は、百年に一度、海面に顔を出す。
広い海には一本の丸太が浮いている。
その丸太の真ん中には、小さな穴がある。
丸太は、風に吹かれるまま、波に揺られるまま、西へ東へ、南へ北へ、と漂っている。
阿難よ、百年に一度浮かび上がるその目の見えない亀が、浮かび上がった拍子に、
丸太の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか」

阿難は驚いて、答えます。

「お釈迦様、そのようなことは、とても考えられません」

「絶対にない、といい切れるか?」

お釈迦様が念を押されると、
「何億年、何兆年の間には、ひょっとしたら頭を入れることがあるかもしれません。
しかし、『ない』といってもいいくらい難しいことです」

阿難が答えると、お釈迦様は、
「ところが、阿難よ、私たち人間が生まれることは、
その亀が、丸太棒の穴に首を入れることがあるよりも、難しいことなんだ。
有り難いことなんだよ」

この言葉にはそれだけの密度がある、だから私は最高の敬意を払う意味合いで合掌をしてしまう。
以前、LIVEを見た時に「普段の買い物では『有り難う』なんていわれない」という言葉を聞いた時に違和感しか無くて、
この買っているモノも
幾時代を積み重ね
幾人もの人が関わってきたからこそ手に取る事ができる。それなのに其処に『有り難う』が無いのは寂しいと思ってしまったのを覚えています。

今回、コロナ戦争でいままでの当たり前が壊れたことにより、
この事を考える人が少しでも増えてくれたらなと心の底から思います。
誰かを非難する為に拳を振り上げるエネルギーを少しでもと、
そして、願わくばその拳を解きほぐし誰かに差し伸べる手であって欲しいと切に願います。

追記:個人的に心持ちの一番の理想が私にはある。
   それは例え誰かに殺されてしまったとしても『有り難う』といって
   死ねるようになる事です。
   「誰かを殺してしまうくらい貴方の道な暗く険しかったのでしょう、
   きっと私には想像出来ないよう事だと思います。
   でも、どうかそんな貴方でも『有り難う』と噛み締めて生きることが
   できるように」と
   『有り難う』にそのような祈りを込めて

この『note』は文章としての体を成せる様に改めて書き直ししようとおもいますが、今日はひとまずこれで。

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