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そこはやっぱり新書ってわけ

こんばんは。今の朝ドラ「虎と翼」は、週末にだらだらと録画した分を見るのではなく、その日のうちに見てしまいます(やっぱり録画なので、お昼か夜です)。過去でいえば「ちむどんどん」はひどくて、数週間ため込んで結局見るのをやめてしまいました。
続きが楽しみだから、だらだらとため込むことがないのだと思います。

ああ、先日のnoteで、「できれば使いたくない言葉」に「うざい」「キモい」を挙げましたが、使わざるを得ないときがあって、それではいけないと戒めています(「戒め」の選手のことではありませんw)。こればかりはどうにもならない。ネットを閲覧する際、自分から触れなければいいだけの話です。
世の中、そんなにきれいな言葉遣いしかしない人っているのだろうか? そもそも、きれいな言葉と汚い(乱暴、品のない)の境界線はどこだろう?

高校生の頃から、日本語について考えてました。古典はあまり得意ではありませんでした。言葉としての日本語? コミュニケーションをとる手段の日本語? まあそんなものだったと思います。あと東京生まれ東京育ちなので、方言というのもわくわくした。

最近某SNSで流れてきた、新書の話を改めて読むと面白かった。そうか、そんなに真面目に読むことはないのかと思った。給食の話を、昭和と令和で比較するのだってアリじゃない?

以前「新書なんて1時間で読めるでしょ」と言われたことがあって、それはさらさら~っ読んでしまえば可能なんだろうと思う。自分はそれができなくて、真剣に読んでしまう。
先日名古屋に行った際、持参した新書は4冊でした。新幹線の中で読むためです。うち1冊は8割くらい読んで、そこで流れを断ち切るのが嫌で、行きの新幹線で読みました。男性が読んだらどうなの?って本でした(著者は女性)。2冊は手つかずのまま、キャリーバッグの中に詰め込んで帰りました。

名古屋ならこだま号でも全然平気です。お茶飲んでお菓子食べて本を読む。それで東京から3時間弱を過ごせます。たまにスマホをいじっちゃうけど。
新書はやっぱり暇つぶしなのか? 図書館で借りた本とか、外に持ち出せないじゃないですか。かさばるのもある。小説だといい加減にできない。そこで新書なのか?

新書でもいい加減にできないのは、傍から見たら疲れてしまうかもしれません。積ん読にしてしまう一方で、「給食の歴史」(藤原辰史著、岩波新書)や「万葉秀歌」(斎藤茂吉著、同)とか、長くつきあう本もあります。自分でも両極端だなあと思います。

最近は「光る君へ」効果で、源氏物語や枕草子の周辺の新書や文庫が出ています。本屋さんとつきあっていたら、エンドレスである。

新幹線の中で読んでいると、新書は1冊につき2~3時間かかります。そう、東京から名古屋でちょうどいい量です。新大阪ではどうだろう?

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