(音楽家のキャリアパスの一つの形〜藝大ピアノ科から作曲科へと現役で進んだ私の体験談ー勉強法、仕事、演奏やアルバイトとの両立 ) 第1章幼少期から〜高校時代まで

*この記事は全文公開の投げ銭スタイル(無料)です。もし、気に入った、今後に期待がもてそうだと思った方は、フォローなどの反応でも投げ銭でもよろしくお願い致します。

 8/4の第0章からすっかり時間が空いてしまいました。ここでは第1章として、音楽を初めた幼少期から高校時代までを書いていきたいと思います。

 この連続記事のコンセプトは(改めて)、特に地方で音楽を学ぶ学生さん達に何かの助けになればということです。自分自身も今まで、「もっとこれを知っていれば」とか思うことがあり、特に地方(地方都市ではなく)で育つ方々が最近でもレッスンなどをしていて情報に飢えていることを実感しているので、何かの助けになればと思ったからです。何年にどこに入学して、何を学んだということは便宜上書きますが、具体的な先生のお名前や受けたコンクール名などは書きませんのでご了承ください。

 最初に、音楽を初めた時期は…実は正確には覚えていません。まだ幼稚園生(?)の頃にヤマハのエレクトーンのグループレッスンに行っていた(なんとなく三軒茶屋?あたりのヤマハ教室の外観が思い出せます)ことを覚えています。それがきっと音楽を習い始めたきっかけだと思います。

 実は、最初の作曲は6歳くらいの時でした。少し旋法的な変わった歌だったのですが、何故その歌を作曲したのか(オリジナルは無くしてしまったのですが、その後書き留めたものがきっとどこかにまだあると思います)定かではないのですが、ヤマハの教室で「創作」(といってもそこで何か作った記憶も全くないのですが)という観念を刷り込まれていたのかもしれません。

 次の変化は、7歳になる頃(もうこの時には田舎に引っ越していました)から個人の先生に「ピアノ」を習い始めた頃でした。初めは一つの習い事だったのですが、小学校4年生くらいから子供や学生のためのコンクールを受け始め、そこで少し結果が出たことがそれからの道につながっていきました。この時点でも「作曲」ということは頭の片隅にさえありませんでした。というか10代の半ばまでいわゆる作曲家とは「基本的には亡くなっている人しかいない」となんとなく思っていました。

 中学校になり、よりピアノのコンクールにも本格的に取り組むようになりました。普段は「作曲」のことなど考えていないにもかかわらず、やはり数年おきに何か自分の曲を書きたくなる(思い浮かぶ)ことがあるみたいで、オーケストラ(もちろん、ハーモニーとかも全くやっていないので多分編成ぐらいしか合ってないですが、メロディーは今でもそれなりに気に入っていたりします)、とかピアノ曲とかを折に触れて作曲していました。中3(2005年)の時に書いた曲を、去年少し演奏する機会がありまとめ直したものが以下の曲です。

 そしてやっと中2くらいからソルフェージュ(主に聴音と楽典)を、往復2時間強くらいかけて先生に習いに行き、高校は藝高(東京藝大の附属校で上野の大学の横にあります。ちなみに、家から一番近い音楽高校というのも重要な点でした。1時間以上通学にかかるけど)を受験し、ピアノ専攻で入学しました。

 高校時代も色々な音楽的経験をしましたが、作曲や音楽理論に関しては学校の授業(『総合和声』を使ったものや音楽分析など)を中心で、特にプライヴェートで先生に習いに行くことはありませんでした。しかしながら、高校在学中は高校の図書室にあった『総合和声』全3巻を独学で(確か2か月かかったと思います)全部「読破」(ただそのあとそのやった課題を先生に見て頂いたら出来は全然でしたが)、したりということは、誰に言われた訳でもないけどしました。あとは、夏休みにカルメン全幕をヴォーカルスコアで弾いたり、プッチーニのオペラを(DVDで)見たりということを頻繁にしていました。ここで同級生に作曲専攻の学生がいることを知って初めて「生きている作曲家っているんだ」と実感が持てました。

 実は中学頃からは音楽以外の文学、絵、映画などにもとても興味があり、文学だとドストエフスキー、ゾラ、ユゴーやあるいはデカルトなど(思いついた順に書いてます)、あとは芥川賞をとった作家の受賞作を片っ端から読んだり、絵も高校の図書室のお払い下げになった美術手帖を何冊ももらって読んだり、映画も1年で100本以上見たり、色々なものに興味がありました。

 その中で特に興味を持った(ある意味当時心酔した)のがアルチュール・ランボーの「地獄の季節」、とデヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライヴ」(2001)です。マルホランド・ドライヴはVHS(! ギリギリVHS世代です)にダヴィングして多分200回くらいは見たのではないかと思います(ちなみに正直今はそれほど感銘を受けませんが)。その時に思っていたのは、詩はランボー(日仏どちらも見ました)を見て、こんな天才がいる世界、まず自分には無理だろうなと思い、絵も当時はそこそこ自信があったけど見るだけでいいや(まだいわゆる「現代アート」などはあまり知りませんでした。知っててビュフェやベーコンくらい)、しかし映画はいつか撮ってみたいなと思い、いろんな映画を見たり、分析してみたり、本を読んだり、していました。「当時の」お気に入りの映画監督は、ゴダール、トリュフォー、ワイルダー、タランティーノなど、他にもいわゆるB級映画も沢山見ました。

 そういえば話が前後しますが、藝高に入った時、ソルフェージュ、特に視唱やリズムなどはほぼ一切やったことがなくて、確か当時は(今は知りません)入ってから(?)クラス分け試験があったと思ったのですが、先生の言ってる試験上の注意点さえよく分からない(言葉を変えると、「初耳」)という状況で、1年生はほぼ最下層のクラス(FとかGとかだったかな…)でした。しかし真面目には受講して3年生の頃には一番上のクラスに上がり、大学ではずっと上のクラスだったので、やっぱりソルフェージュは初めはダメでも数年やるだけでも大分違うなと思います。

 例の「自作曲を作りたくなるサイクル」のせいか、高3の時には突然、こんな曲を思い浮かんで作りました。もとは歌曲なのですが、あまり歌詞は上手くいっていないので、今は旋律楽器で主に演奏して頂いています。演奏自体は去年か一昨年のものです。下の動画はVn.永井由里さん、Pf.水月恵美子さんです。

 そんなこんなで高3で大学受験を迎え、そのまま藝大の器楽科ピアノ専攻に入学しました。そしてこれから色々なことを考えて、やっといよいよ和声や対位法などをきちんと勉強し始めるのでした。

 幼少期から高校時代をまとめると、少し色々なことに興味はあって、たまに何故か思い浮かんで曲を作ることがありますが、それ以外はごくごく一般的なピアノ専攻の学生の進み方でした。この学生が大学時代にどんな風にさらに色々な音楽に触れて行って、作曲をまがりなりにも「志して」行くか、あるいはそのためにどのように学習していくか、ということはまた次回以降に書いていきたいと思います。

また不定期になると思いますが、お時間、ご興味ありましたら是非またご覧ください。

*この記事は全文公開の投げ銭スタイル(無料)です。もし、気に入った、今後に期待がもてそうだと思った方は、フォローなどの反応でも投げ銭でもよろしくお願い致します。

ここから先は

0字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?