春に伝えること

花が綻び始め、温もりのような風が今年も吹き始めた。
暦ではなく、この感触が、彼の居なくなった春という季節の訪れを気付かせる。

娘が小学生になる。
彼女が産声を上げたその年、私は何度も彼を側に感じていた。
彼は一体いくつもの小さな命をこの世界に取り上げてきたのだろう。
もしかすると、本来産まれてこなかったかもしれない命も、この世界に運んできたかもしれない。
私は、壊れてしまいそうな小さな赤ん坊に触れながら、幾度もそう思ったものだった。
その頃、傍らのテレビでは、イギリスのフットボールリーグの選手達が、試合前に喪章を付けながら黙祷していた。
フランスで無差別テロが起こり、たくさんの無辜の命が突如奪われていた。
思えばこの時すでに、世界はもうかなり壊れ始めていたのだった。
一体、いつ、小さな亀裂が入ってしまったのだろう?

卒園を間近に控えた娘の保育園から、一通の連絡が寄せられた。
命の大切さを学ばせる時間を設ける。お子様に、産まれたときのエピソードや、その時の親の気持ちを手紙に認めてほしい、というものだった。
私は困惑した。
出産の瞬間の経験や、気持ちを伝えることで、命の大切さを教える?
鬱陶しい親と思われることを承知で、私は保育園に、どのような授業をするのか教えてほしい、手紙の参考にするから、と連絡をした。
回答はすぐに来た。
赤ちゃんがどのように生まれるかお話し、新生児人形の抱っこ、産道体験を予定しています。自分がどのように産まれるかを知ることで、自分や友達を大切にする気持ちを育むことができたらと思っています。
そんなことが、書かれていた。

彼が居なくなった日の春の夜、私は一報を聞いた後の帰路で、闇夜の中に咲く鮮やかな花々を茫然と見ながら、生まれて初めて、これは本当に悪い夢だ、きっとそろそろ覚めるはずだ、と真剣に思い続けた。
そして夢ではないことを悟って暫く、数年分の涙を流した。
私は彼に何を伝えればよかったのだろう。
数日前に交わした電話で、私は何も気付かなかったし、もしかすると何か彼に決心をさせてしまうような事を言ってしまったのではないだろうか。
そんなことを思うと嗚咽が止まらなかった。一体、いつ、小さな亀裂が入ってしまったのだろう?

あの夜と同じように、仕事場からの帰路、闇夜の花が綻んでいる。私は保育園からの返信をしつこいほどに反芻しながら家路に向かった。
彼は、人形ではない本物の新生児を抱っこし、命がどのように産まれるかを知りつくした医師だった。
なのに、彼はあの春の夜に自分を大切にする気持ちを失ってしまったではないか。
私は、保育園に何の落ち度もないこと、自分がこの件について過度に執着していることを十分理解していたけれど、やり場のない怒りを周囲に気づかれぬように振る舞うことに苦心した。
仕方のないことだった。同郷の友人を喪ったあの日以来、春の夜はいつも過敏になってしまうのだった。
17歳と18歳の頃に、彼とは北海道の学生寮の同じ部屋で生活をした。私達は卒業とともに上京し、故郷とはどこか違う東京の大人の社会に出ることになった。
そして、あの春の夜から10年近くの月日が経った今、私は今も東京で溺れないように泳ぎ続け、彼は一人北海道で年取ることなく眠っているのだった。

帰宅後、残業続きの頭を冷やしがてらソファに寝転び、娘への手紙を考えた。
私は考えに考えた末、2つのことを手紙に書いた。

これから出会う世界中の人たちは、あなたと同じように、誰かに愛され、育てられてきたのだから、思いやりを持って接してもらいたい、ということ。そして、もう1つは、あなたが大人になってからも、父はあなたを守り、味方でいる、ということ。

1つ目は、テレビで絶え間なく流れる砲撃を見ながら、書いたことだった。画面の向こうでは、幼い命が家を奪われ、逃げ、そして殺されていた。娘が産まれる頃に既に壊れ始めていたこの世界は、本格的に壊れようとしていた。しかし、それは紛れもなく娘がこれから生きる世界だった。

2つ目は、私が彼に伝えたかったことだった。電話でこれを伝えていれば、彼は今も生きていたかもしれない、とは思わない。だけどもし彼が長く苦しんでいたのだとすれば、そのときに伝えておきたかった事だった。そして今、彼が最後に選んだ結果についても、彼の味方でいよう、と思うようになっていた。彼は悪いことをしたわけではないのだ。

認めた手紙は封され、娘には内緒で保育園のもとへと渡っていった。しかし、まだその手紙は開けられることなく、件の授業も行われていない。感染症の波が子供達に蔓延し、保育園を開けることすらできない日々が続いている。もしかするとあの手紙は開けられることなく、娘は卒園するかもしれない。

私は苦笑しながら、彼に言う。大変な世界になったもんだよ。でもそのことについて、どう思うか話し合いたかったよ、と。





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