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雀部、カルぺに初登場


8月1日に荘民になってから、今まで一度もカルぺに立ったことがなかった私ですが、ついに、11月27日に初めて、カルぺに立ちました。

コロナの感染拡大防止等のため、直前にTwitter等で宣伝することはせず、ひっそりとやらせていただきました。当日は、20分程で自分の過去と将来についての話をしました。

Nov27雀部カルぺに初登場


どうやら、当日お越しいただいた方だけでなく、荘民にとっても今まで知らなかった雀部像を知る良い機会になったようで、発表良かったよ!と何人かに言っていただけました。
本当に、ありがたいことです。

さて、そんな発表ですが、実は、当日、話始めるまで、何を話すかほとんど決めておらず、お客さんからお題をいただいて、それについて即興で話し始めたものでした。

今回のnoteでは、お越し頂けなかった方に向けての、内容共有もかねて、発表内容の概要と、発表をした後の所感を記していければと思います。


幼少期

雀部庄平、1995年5月生まれ。25歳。
静岡県三島市で育つ。

私の記憶にある一番古い記憶は、2歳か3歳の冬の話。
珍しく雪が降った日。母親が、外から洗面桶いっぱいに雪をもってきてくれて、その雪で雪遊びをしてた。室内で遊んでいたので、床もびちゃびちゃ。それでも、自由に遊ばせてくれた気がする。そう。そんな感じで、自由にさせてくれた。それが、今の「気が向いたら行動するところ」とか、「面白そうと思ったものはとりあえずやってみたい」という自分に繋がっているような気がする。


幼少期の夢

そんな私が、初めて抱いた将来の夢は、時計屋さんになること。どうしてかは分からないが、数字というものに、強く惹かれたのが理由。ちなみに、この頃はまっていたのが、電卓遊び(らしい)。生後数か月の妹に、「ねえ、見てて。3+1=4」などと、得意げに教えていたらしい。こんな3歳児、冷静に考えなくてもバグっている。

画像2

 (少しばかり前に実家で見つかった私が3歳の頃の母の日記)


バグっているエピソードといえば、3歳が4歳の時の健康診断の時のこと。視力検査があって、ランドルト環(Cみたいな形のあれ)の切れているところを医師に伝える必要があった。当時は、文字通り、右も左も分からなかった。そこで、使ったのが時計の考えかた。右が空いていれば3。左が空いていれば9って答えていた(らしい)。

視力検査

雀部少年(3歳) 「9!」


次に、抱いた将来の夢は、お天気お兄さんになること。いわゆる、気象予報士ってやつ。この夢は、4歳くらいから高校に入学する少し前まで持ち続けていた。
このころ(保育園の年中から年長にかけて)の趣味は、2つあった。1つは気温を感じること。もう1つは保育園の園庭に生えている植物と対話すること。説明がないと全く伝わらないと思うので、簡単に説明する。

1つ目の趣味。気温を感じること。
1)まずは、朝。保育園に行く前に早起きをする。
2)そして、weathernews社の番組をつけ、外気温を確認。
3)あとは、庭に出て、「ああ、これが12.7度の空気かー」と気温を感じるだけ。

以上!

余談だが、このころは、自分がいる空間の温度をおおよそ±0.5度の精度で当てられた。
小学校に上がってから朝の時間が無くなって、この習慣もなくなったので、生憎今はその技は使えない。

2つ目の趣味。植物と対話。
これはいたって簡単。単純に、植物を見るだけ。
保育園に通っていた頃は、園庭に生えている花をつける植物の名前は基本的にすべて言えた。もう、ほとんど忘れてしまったが、有名どころの花の名前なら今でも多少分かるのは、このころのおかげ。

さて、こんな形で数字や自然に強い興味を持った私。
その流れで水に関係したところでフィールドワークがやりたい!!って思って水産学部に入学することになるのだが、それはまだまだ先の話。話題が尽きたらいつか書くかもしれない。


小学生

実は、小学校1,2年の頃の記憶は保育園時代に比べるとあまりない。
強く覚えているのは、小学3年時以降。このころは、とにかくうるさく、落ち着きのない子供だった。通知表の担任の先生からのコメントには、「クラスのムードメーカー」と書かれるような子供だった。そして、小学4年の頃には、「スコップ」というあだ名を担任の先生から付けられていた。命名理由は、よく喋る→しゃべる→スコップ。最近、僕と知りあった方からは想像もできないと思う。そんな感じで、よく言えばとても明るい子供だった。


中学から大学入学まで

周りの大人には静かにしなさい!落ち着きなさい!って言われることが多い小学時代を過ごしたせいで、できるだけ静かになろう(静かになれるようになろう)と思って過ごした。昼休みは、週の半分ほどは外で遊んだりもしたが、もう半分は教室で特に静かにしている子のところへ行き、雑談したり、その子のはまっているモノの話を聞いたりしていた。

高校に入ると、僕を知らない人ばかりに囲まれ、さらに、静かに振る舞うことを覚えた。
この頃には、「クラスのムードメーカー」だった雀部の面影もなくなっていた。

そして、それが完成されたのは、浪人時代。実は、自宅浪人をしており、その年は、ほとんど家族以外の人と話をしなかった。それはそれで、とても楽だった。


大学入学

大学入学を機に、地元から遠く離れた地、北海道にやってきた。

ここで大問題発生。まず、人との会話の仕方がわからない!
そう、1年間同年代とほとんど話していないので、どう喋ったらいいか分からないのである。

これじゃ、友達が作れない!
流石に焦った。そして、ここからは今までとは逆に、明るくなろう、人と話すようになろうと思うようになる。

そして今。
全くと言っていいほど、人と話すのは問題なくできるように戻った。
(と本人は思っている。)
ただ、昔のようにはうまくいかないことも多いってのが、正直なところかな。

以上が、私の半生。

これから

これからも、一個人としては、今までと同じように様々なタイプの方と関わっていくことになるんだろうなって思っている。そして、その中で地方創生に関わることができたらいいなって思っている。この辺、地方創生の件はまた、機会があれば別のタイミングで書ければなーって思っている(本投稿内、2回目の書くかも宣言)。


発表を終えて

荘民だけでなく、当日お越しいただいた方を含めた多くの人の前で、自分の過去を振り返るという経験をしてみた。発表そのものに関しては、正直、まあまあうまくいった方だと思っているところもある一方、もっとこう話した方が良かったという点もある。
もう少し、全体的なことを言えば、「荘」っていいな、函館って暖かいなと思った。謎な大学生の面白くもない発表を真剣に聞いてくださる方がいて、私たち学生から見れば、それを通じて街との関わりが持てて…。


 発表後の質疑応答で答えた話だが、大学生活の前半、札幌にも2年住んでいたが、少し休みが取れたタイミングで札幌に行こうとは、恐らくならないだろう。それは、友人らがあまり残っていないから。その一方、函館には「荘」があって、私が函館を離れた後も、私が一時期であってもいた場所が残っている。そんな形で、誰かにとっての居場所、戻れる場所を増やすことが、昨今話題になっている、関係人口の増加につながるんだと思う。そんなことを思いながら、私が「荘」を離れた後もこの調子で「荘」が発展していってくれればいいなと感じた夜になった。


おわりに

ここまでお読みいただきありがとうございました。
後半、雑さが目立つ気もしますが眠くなったので寝ます。申し訳ないです。
まずいないとは思いますが、このnoteを読んで私に興味を持ってくださった方は、カルぺが開いている時に、わらじ荘に遊びにきてください。そして、思う存分、私を質問攻めにしてください。それでは。
*所用で不在にしていることもありますので、事前連絡していただけると嬉しいです。

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