善意の暴走~「大善」と「小善」
先日読んだ戦時中に関する本で興味深い言葉に出会いました。
「大善」と「小善」です。
字面を見ると、「すごく良いこと」と「ちょっと良いこと」という意味にとれますが、その中身にはもっと深い意味がありました。
戦時中の軍人たちの行動指針
この2つの言葉は、昭和10年前後、天皇親政(天皇自身が政治を行うこと)を唱える軍人たちの間でよく使われていました。この言葉は天皇に忠を尽くす際の二種類の行動のとり方を表しています。
「小善」は、軍人勅諭(当時の軍人のあり方が書いてあるもの)に書かれてあるとおり天皇に忠実に仕えること。そして「大善」とは、「天皇陛下の大御心に沿って、”一歩前に出て”お仕えすること」を示しています。漢字が表すとおり、彼らにとってはもちろん「大善」の方が行動として優れていると考えられていました。
ただ「大善」というのは、「きっと陛下はこう思われているだろうから、私はこうしたのだ」と言ってしまえば何でもオッケーということでもあります。なので、陛下は本当はそんなこと望んでいないのに、軍人たちが勝手に陛下の心の内を想像して行動することが良いこととされていたのです。
暴走する善意
実際、戦争は圧倒的に兵力が違うアメリカを相手に続いていったのですが、なぜそんなことになったのかということの一つには、この「大善」という考え方があったのだと思います。
言い換えると、「良かれと思って」という気持ちがあったのだと。
「陛下は口にはされないが、国を守るためには戦争を続け勝たなければならないと思っているに違いない」
と当時の軍人たちは考えていたのかもしれません。
相手のことを想ってした行動が間違った方向へと突っ走っているというのは、今でもよくあることです。「余計なお世話」というやつです。
「相手のことを想ってやっているのに、余計なお世話とはなんだ!」と怒り出す方もいらっしゃるかもしれませんが、相手が語らない限り、本心というのは他人が知ることはできません。そこのところを心に留めておいてほしいと思います。
相手の心を推し量って行動するということ自体は素晴らしいことだと思います。ただそれに相手からの感謝や報酬を求めてしまうと、少し具合が悪いようです。もらえなかったときに「なんだ、こいつは!」という気持ちになってしまいますので。
あくまで、自分が勝手にやっていることだと、相手がそれを受け取るも受け取らないも相手次第だと知っておくと、そういう風に思うことも無くなるのではないかなと。
それと、なかなか言いづらいとは思いますが、余計なお世話をされた側もその行いを正すよう声に出す必要があるのだと思います。
そうしないと、かつての戦争のように善意が暴走しつづけていく事態になってしまいますから…
【今回読んだ本】