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雑考「『信仰』について考えたこと」

宗教を題材にした小説を読んでいた時に、「宗教や信仰にもいろんな種類があるんだなぁ」と。私が知っているところだと、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教があって、それぞれにいろんな派閥があること、あとはそれぞれの土地に土着の宗教があるくらいでしょうか。

ただ、小説を読んでいた時に思ったのは「信仰」するのは宗教だけではないということです。
(先に断っておきますが、私は特定の宗教を信仰しているわけではありません。)

ここでいったん、言葉の整理をしておきます。

■信仰
1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。
2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。
■宗教
神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。
(goo国語辞書より)

小説の中ではある組織のカリスマ的な人物を崇め奉っており、それが神と同じレベルに扱われていました。その人物が思い描く世界を実現するため、彼を崇める人たちが狂信的な行動を取り続けるのですが、そこで感じたのは、
特定の対象が絶対のものと信じて疑わないことの異常さ」です。

神仏が間違ったり誤った方向に導くというのは宗教上ありえないとは思うのですが、ある人物を信仰するというのはやりすぎかなと。その人だって人間ですから、間違うことや的外れなこともあるでしょう。それを疑わずに無闇に信じることに怖さを感じます。

「信仰」という言葉の使用例で、「ブランド信仰」というのが取り上げられていて、それも似たような話です。ブランドは人の手によって作り出されたもので、「そのブランドが出すものは全て良い」とはならないと思うんですよ。(これを言ってしまうと、宗教も人が作り出したものになるんでしょうが)

なんで「信仰」というものが起こるのかというと、それが楽だからだと思うんです。ブランド信仰がわかりやすいと思うのですが、「そのブランドを買っておけば間違いない」というのがあれば、商品を買う時に比較したり迷ったりすることも無いわけです。

ある人物を信仰することも、その人が自分が生きていくうえでの指針や目標となっているのだと思います。自分がどこに向かうのかも分からず、生きていくのは辛いものがあります。どこがゴールかも分からず、あとどれくらいかも分からずに、走り続けるのはしんどいですよね。

この「信仰」が行われているのは、法律やルールもだと思うんです。「あれをしてはいけない」とか「これをするときにはこういう手順で」と決まっているのは、自分の頭で考えなくていいので楽なんですが、それが今も正しいかどうかは分かりません。それを作ったのはだいぶ昔の人たちですし。

「信号を守る」というルールがありますが、昔は車通りが多かったのかもしれないけど、今は過疎化で全然車が通らないところの信号をマジメに守る必要があるのか、と思ったりもします。でも、信号が赤になると自然と立ち止まっている自分がいて、法律やルールを無自覚に信じてしまっている怖さを感じます。

法律やルールの数は膨大で、一つ一つのぜひを検討するというのは無謀だと思いますし、幼いころから叩き込まれてきたものを変えるというのは難しいかもしれません。ただ、それを盲目的に信じるのではなく、今に合っているのかどうかを考える頭は持っていたいものです。