小林勝平

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シン・声幽ネットワーク論:ll ■親と子の鎮魂の物語-庵野秀明,安野モヨコ,宇多田ヒカル-さようなら、すべてのエヴァンゲリオン批評

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(ヨハネの福音書) シン・エヴァンゲリオンについての感想は主にふたつだ。天国だったと賞賛するもの。あるいは、その仮初の天国に異議を唱えるもの。 庵野秀明は、果たして救世主だったのか、はたは

    • シンエヴァ論③真希波・マリ・イラストリアスとはなんだったのか-さようならエヴァンゲリオンの本当の意味その1

      卒業式説について考える庵野秀明は、自己=エヴァの呪縛から逃れ、物語の外部へ到達するために、虚構の世界に、現実の要素であるマリ=宇多田を導入した。その目論見は達成した。ただ、それは単純に現実へ回帰するというメッセージではない。イマジナリーである虚構と現実その全てを肯定すること。それが現在の私の肯定につながる。 前回までで、第一の命題であるマリはなんだったのかについては、一通りの回答を出した。では次に、もう一つの命題について考えてみることにしよう。 さようならすべてのエヴァン

      • シンエヴァ論②真希波・マリ・イラストリアスとはなんだったのか-マリは宇多田ヒカルであるその2

        マリと宇多田という追加要素東浩紀は、クォンタムにおいて、実の娘である汐音を汐子として召喚し、物語の外部へと至った。では、庵野秀明が召喚したマリとは誰だったのか? 結論から言えば、宇多田ヒカルである。だが、具体的にその論拠を示す必要があるだろう。 マリを宇多田ヒカルと結びつける言説は、少なくとも私の知る限りでは、著作として書かれたものでは、音楽批評などをしている伏見瞬以外いない。 彼はこのようにいう。 さらに彼は、彼女たちの共通点をいくつか挙げる。 過酷な状況に対する

        • シンエヴァ論②真希波・マリ・イラストリアスとはなんだったのか-マリは宇多田ヒカルであるその1

          物語の外部はなぜ必要だったのか前回は、否定神学的に、俗説であるマリ≒安野モヨコ説を否定した。次に、肯定神学的にマリは、なんだったのか?を論じてみたい。 ここで、導入するのはこれもまたシンエヴァ論の中でよく言われる議論である。つまり、マリは外部の象徴であるという言説だ。 前回引用した藤田直哉の議論の中でもこのように書かれていた。 同じく精神科医の斎藤環は、誰も言ってくれないのでという自虐もまじえつつ、2013年の時点で、シンエヴァ以前にこのような終わり方を予見していたと語

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        シン・声幽ネットワーク論:ll ■親と子の鎮魂の物語-庵野秀明,安野モヨコ,宇多田ヒカル-さようなら、すべてのエヴァンゲリオン批評

        • シンエヴァ論③真希波・マリ・イラストリアスとはなんだったのか-さようならエヴァンゲリオンの本当の意味その1

        • シンエヴァ論②真希波・マリ・イラストリアスとはなんだったのか-マリは宇多田ヒカルであるその2

        • シンエヴァ論②真希波・マリ・イラストリアスとはなんだったのか-マリは宇多田ヒカルであるその1

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          シンエヴァ論①真希波・マリ・イラストリアスとはなんだったのか? -マリは安野モヨコではない

          佐々木敦の『成熟の喪失』を読んだ。なるほど、江藤淳の成熟の問題は、戦後の日本の文芸批評全体を捉える非常に重要な概念であるのは確かだろう。ただ、ここで語られるシンエヴァ論にはいささか納得しかねる。 世の中にシンエヴァ論が出るたびに,「まだみんな世界の真実にたどり着いていないのか」と嘆息してしまう。私は公開二週間もかからずにその真実に辿り着いたというのに。 これは,2021年の3月20日に書いた下記のシンエヴァ論の論旨を絞った上で追記したものである。とはいえ、言いたいことは変

          シンエヴァ論①真希波・マリ・イラストリアスとはなんだったのか? -マリは安野モヨコではない

          小説-打ち上げ花火-観覧席から見るかマンションから見るか(成瀬二次創作)

          ■1■ 滋賀県には、見えない大きな壁がある。琵琶湖という大きな壁が。  滋賀県は地理的には、南北に長く、西は比良山系に連なる比叡山があり、東には鈴鹿山脈が存在している。そして、中央に位置するのが、そう、琵琶湖という日本で一番の大きさを誇る湖である。(実は法律上は、河川なのだが)ただ、 他県の人には、よく「滋賀には琵琶湖しかない」と言われるが、実は大きさは滋賀県全体の6分の1程度である。それをアピールするために、コクヨが、ロクブンノイチ野帳というのを発売もした。ただ、実際

          小説-打ち上げ花火-観覧席から見るかマンションから見るか(成瀬二次創作)

          ゼロ年代批評批判を超えて①-エヴァ史観とホモソーシャルのディストピア

          例にもよって適当に書き始める。①とか書いてるが、続くのかは知らない。以下本文。 ゼロ年代批評と呼ばれるよくわからない何かに対してのまたよくわからないよくある批判として、エヴァ中心史観、つまりエヴァについて語るあまりに他のものを語り落としているというものがある。 私もゼロ年代批評が好きなものの一人ではあるが、こういった批判はある一定の妥当性はあると思う。私自身とエヴァの出会いは、大学時代になってからで、寮の友達の部屋で一緒に鑑賞したのが始まりだった。その時も、衝撃は受けたも

          ゼロ年代批評批判を超えて①-エヴァ史観とホモソーシャルのディストピア

          【読書感想】森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』-ふしぎを取り戻すための物語

          いくつか森見登美彦作品を読んできたが,ここまで作品や創作についてのメタ物語ははじめて読んだ.色々インタビュー等も読んでいると,実際に作者である森見登美彦自身のスランプを,ホームズに投射しているようだ. まず,この作品は【ヴィクトリア朝京都】というパワーワードが出てきた時点で誰しもがやられてしまう.普通にありえないのだが,なぜか不思議と想像してしまえるのは,ヴィクトリア朝と京都のイメージのデータベースのなせるわざなのか. さて.この作品には,大きく2つの謎がある.それは物語

          【読書感想】森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』-ふしぎを取り戻すための物語

          【読書感想】みんなが少しづつ「魔女」を殺した-フェルナンダ・メルチョール『ハリケーンの季節』

          読書会で『ハリケーンの季節』を読んだ.結構個人的には好きな作品だった.以下感想. とある村で<魔女>が死んだ. なぜその魔女が死んだのか.5人の視点から語られる断片的な事実から徐々にその輪郭が浮かびあがってくるという手法は,ミステリのようでもあり,自分自身が警察官やジャーナリストで聞き取りをしているかのようだ. はじめに目を引くのは文体だ.この小説にはほとんど段落というものがない. 読書会の中でもこの文体については,議論があった.座談会の書き起こしを経験したことがある

          【読書感想】みんなが少しづつ「魔女」を殺した-フェルナンダ・メルチョール『ハリケーンの季節』

          誠実さと丁寧さについて-暇空茜&町山智浩対談の感想

          暇空氏と町山氏の対談を見た。 誠実さとは何か4時間以上に渡る動画の内容はここでは詳しくは語らない。だが、話を聞きながら考えていたことを書いてみようと思う。 最近、ローカルな批評界隈で誠実というキーワードが流行ってる。誠実さは大事だ。とはいえ、誠実さとなんなのだろう。辞書にはこうある。 私は対談の間ずっとこの誠実さについて考えていた。 暇空氏と町山氏の対談は、非常に対照的だった。攻撃的な暇空氏に対して、語気を荒げることない町山氏。世間一般的には、たぶん、誠実な態度とは町

          誠実さと丁寧さについて-暇空茜&町山智浩対談の感想

          声優とはオノマトペである-アニメ記号接地問題について考える②

          前回↑ 言語の恣意性-ソシュールさて、声優とはオノマトペであるとは、どういうことだろうか。 そのことを考えるにあたって、まず一人の言語学者を召喚したい。 現代言語学の父、フェルディナン・ド・ソシュールである。 ここで、論じたいのは、「言語の恣意性」の問題である。 恣意性とは、arbitraire の訳語である。別の言い方をするとすると、任意性、勝手な、気まぐれなという意味を持つ。言語学の中では、言語記号の音声面とそれが指示する意味面との結びつきは必然的なものではな

          声優とはオノマトペである-アニメ記号接地問題について考える②

          声優とはオノマトペである-アニメ記号接地問題について考える

          なぜ、私たちは、絵=記号にしか過ぎないアニメのキャラクターを愛することができるのか。 ここで、いきなり「私たち」というのは、少し性急過ぎたかもしれない。 何故ならば虚構内の存在であるキャラクターのことを愛してしまう人とそうではない人がいるからだ。わたしは、そのように虚構の存在ですらも愛してしまう「わたしたち」のことを、「オタク」と呼称しよう。 ここでは、オタクとそうではない人の差異を問題としない。だが、おそらくはその違いが果たしてどこからやってくるのか?というものについ

          声優とはオノマトペである-アニメ記号接地問題について考える

          村上春樹の『街とその不確かな壁』は、「シンエヴァ」である-「ぼく」と「私」をめぐる冒険

          ※加筆修正 2023/06/07 今回、村上春樹の新作である『街とその不確かな壁』を読んで、友人の読書会に参加したときに話した陰謀論とそのあと考えたことを書いておく。 読書会の中で私は、この小説は、庵野秀明の「シンエヴァ」と構造的に似ていると語った。どういうことか。 大きく二つの点でそう言える。 まず一つに、運命的な「きみ」のことが忘れられない中年男性が、自閉症的な子どもによって、救われる話であるということである。つまり、「私」は碇ゲンドウであり、「M**くん」が、シ

          村上春樹の『街とその不確かな壁』は、「シンエヴァ」である-「ぼく」と「私」をめぐる冒険

          [小説]失われたデコトラを求めて

          高速道路を車で走っていると、いまでも時々、デコトラに出くわすことがある。アンドンがたくさんついてるその姿を見ると、私は子ども時代に出会ったあるおっちゃんのことをいつも思い出す。 私がそのおっちゃんに出会ったのは、小学校5年の春休みだった。 その頃の私たちの遊び場といえば、近所の神社にある公園だった。そこには、ちょうど石の柱が二つゴールポストのように立っていて、そこをゴールに見立ててサッカーをすることが常だった。罰当たりな話ではあるが、今でも私たちが蹴ったボールの跡が残って

          [小説]失われたデコトラを求めて

          東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』読解-郵便、電話、不気味なもの

          こんなツイートが流れてきたので、前に書いていた『クォンタム・ファミリーズ』論を書き直してみた。 これは、先日書き直した、「萌えは愛の上位概念とは何か?」と関連しているので、面白ければそちらも読んで欲しい。 アクロバティックな「私小説」『クォンタム・ファミリーズ』は、東浩紀によるSF小説である。小説としては、その前にも桜坂洋との合作の『キャラクターズ』があるが、その初の単著で彼は三島由紀夫賞を受賞した。 その受賞時のコメントでは彼はこの小説のことを「現代的なネット(ゲーム

          東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』読解-郵便、電話、不気味なもの

          萌えは愛の上位概念(©︎東浩紀)とはなにか-あるいは確定記述と固有名と愛の関係⑥

          萌え要素と萌えの違いさあ、そろそろこの文章もまとめにかかろう。 改めてこの文章の目的は、2つだ。 1. 萌えは愛の上位概念という言葉はどういう意味なのか? 2. 東浩紀の内なるカントによって、東浩紀を再解釈させること この目的を果たすために、もちろん、最後に召喚するのは、批評界のアルファにしてオメガ。東浩紀である。改めて、東のテクストと宇野の解説について吟味してみよう。 東浩紀は、この文章の中で、「私」の中には複数のモジュール、神がいると論じている。さらに、「萌え」で

          萌えは愛の上位概念(©︎東浩紀)とはなにか-あるいは確定記述と固有名と愛の関係⑥