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シン・声幽ネットワーク論:ll ■親と子の鎮魂の物語-庵野秀明,安野モヨコ,宇多田ヒカル-さようなら、すべてのエヴァンゲリオン批評


光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(ヨハネの福音書)

シン・エヴァンゲリオンについての感想は主にふたつだ。天国だったと賞賛するもの。あるいは、その仮初の天国に異議を唱えるもの。

庵野秀明は、果たして救世主だったのか、はたはたペテン師だったのか?

私はシンエヴァについて、誰よりも深く考えた。
そして、一つの答えにたどり着いた。その答えについて話そうと思う。

私のシンエヴァの感想について。

まず、大絶賛だった。

全てのエヴァンゲリオンだけではなく、全てのアニメをこのシンエヴァは、肯定している。アニメは自由である。庵野秀明は、次の世代にバトンを渡した。それは、シンゴジラの「私は好きにした君らも好きにしろ」というメッセージ。まさしくシンエヴァは、そうした作品だった。シンエヴァは、アニメという「自由を知るためのバイブル」として、今後も語り継がれる作品になるのは間違いない。

下記は見た直後の友人たちとのYouTube配信である。


だが、ふと、配信の後、ある謎について疑問を抱いた。そして、それが世界の真実を解き明かす鍵だと思った。そして、庵野秀明は、実は悪魔だったと推理した。そして、ある答えにたどり着いた。

だが、世界の真実は、別にあったのだ。いや、正確に言えば、別様にありえたのだ。だから、私は不都合な真実よりも、都合の良い真実を敢えて信じることに決めた。そして、不都合な真実を覆い隠すために、都合の良い真実により上書きしようと思う。

これは、私の回顧録であるとともに懺悔録でもある。庵野秀明というキリスト。私は勝手に信じ、裏切られ、そして、また信じた厄介な信者だ。だが、そもそもキリストの使徒たちも、少なからず厄介な信者たちだった。厄介な信者だからこそ、伝えられる福音もあるのである。だから、私はパウロになると決めた。

私、パウロは、濱野智史の有名なフレーズを借用して敢えて言おう、庵野秀明は、キリストを超えた、と。

わたしがかつてそうだったように、あなたは、まだ世界の真実を知らない。あなたの耳で、福音を聞き、あなた自身がエヴァンジェリストになってほしい。俺が、いや、俺たちがエヴァだ、と。


シン・シュタインズ・ゲート論-世界線収束への抵抗の物語


「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ信徒への手紙)


少し、寄り道をしよう。あなたは、『シュタインズ・ゲート』を知っているだろうか?

もちろん、知っているという人はいいが、知らないという人は、wikipediaを見てほしい。



シュタインズ・ゲートは、いわゆるループものと呼ばれるジャンルの最も優れた作品の一つである。

ここで重要なのは、Dメールというメタファーである。

あるきっかけで、Dメール、つまりメールを過去に送ることで、世界線の移動と呼ばれる現象が発生する。それにより、影響を受けた人は過去が改変され、そのことを覚えていないが、なぜか岡部の記憶だけはそのまま残る。

(Dメールというのは、デロリアンメールの略だが、Eメールの一個前という意味もあるのかもしれない)

つまり、シュタゲでは、メールというガジェットが世界線の分岐には必要である。

シュタゲのストーリーとしては、ざっくり言えば、この世界線の変更により、幾多のバッドエンドを経験した主人公が、世界線変動率1%台のβ世界線(ハッピーエンド)を目指すという話である。

これは、シンエヴァも構造としては同じであると言えるだろう。

ここで、重要なのはメールというメタファーである。どういうことか。これは、声幽ネットワーク論の中でも論じたことだが、フランスの哲学者のジャック・デリダから東浩紀が受け継いだ重要なキーワードの一つである。デリダ=東浩紀は、手紙が必ずしも宛先に届かないこと=誤配こそがコミュニケーションの本質であり、可能性であると論じている。

ここでいう世界線の移動は、まさしく誤配である。正しく届くはずのものが間違った宛先に届くことで可能世界へと開くこと。つまり、シュタインズ・ゲートは、東浩紀のいう誤配概念をおそらく意図的に借用していると言えるだろう。

(シュタインズ・ゲートのムックには,東浩紀のインタビューが収録されている)



だが、シュタインズ・ゲートは、そうした誤配の可能性が常に収束してしまうことを描いた作品でもあった。世界線の収縮、誤配可能性の減少については、東浩紀自身も『哲学の誤配』のなかで、能動的誤配の必要性を論じていることからもわかるように、だんだんと世界は閉じていってしまうことを予見していた作品であった。

寡聞ながら、ループものとしてのシュタゲ批評は、見るが、このような世界線の収束の問題こそが、シュタゲの本質的なテーマであることを論じた文章はまだ見たことがない。

ゼロ年代のおわりにあったあの牧歌的なSNS環境の中で、鋭敏な感性の元、今の暗い未来を予知していたともいえる。これは、イーライ・パリサーが、フィルターバブルと呼んだ閉じこもるインターネットに繋がる議論でもある。

他者への共感が、結局自分と近しいものとだけ結びつき、だんだんと興味関心が閉じていくこと。宮台真司は、かつてそれを島宇宙化と呼び、東浩紀は動物化と呼んだ。

だが、本当の他者への開かれは、近しいと思っていた他者が、自分の知らない要素=キャラクターがあることをふとしたときに意識すること。ウンハイムリッヒ。フロイトのいう不気味なものに他ならない。

私たちは常にすでに、不気味な他者をかわいいもの、自分にとって都合の良き形に変えて理解しようとする。それは、もちろん、社会学者のルーマンが「複雑性の縮減」という概念を用いて論じていたようにそれは,社会にとって仕方ないことなのだが、それが不気味な行為だということをときどき思い出すという倫理は最低限持ち合わせるべきだ、というのが声幽ネットワーク論の主張である。


シン・クォンタムファミリーズ論-誤配なき世界は、幸せか?


「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(ヨハネの福音書)


こちらについては、旧声幽ネットワーク論の繰り返しになるので、詳しくは上記pdfの下記の章を参照願いたい

『クォンタム・ファミリーズ』-母性のディストピアからの脱出

私が論じたのは簡単に言えば、先程のシュタゲ論で論じたことについて、東浩紀は自身によるアップデートをしたということだ。どういうことか。

世界線の収束というシュタゲの問題は、QFのなかでは、可能世界の家族を集める大島友梨花に相当する。母とは子どもが不幸になる可能性を縮減し、幸せな世界を望むものだ。

それは、宇野常寛の言葉を借用するならば、母性のディストピアに他ならない。

行動経済学のサンスティーンらが提唱したリバタリアン・パターナリズムは、失敗する可能性を極限まで減らすということだ。言い換えれば、マターナル・パターナリズムという語義矛盾のような考え方である。宇野常寛の母性のディストピア批判はこのような思想に対しても有効だろう。


東浩紀のいう誤配概念は、むしろ失敗にこそ可能性を見出す。だから、失敗しない世界をつくろうとする大島友梨花は、主人公往人により、否定される。この往人の決断は、東浩紀が好んでももちいるドストエフスキー地下室人のモチーフ、言い換えると引きこもる自由、あるいは愚行権のことでもある子供であることの自由,つまり誤配について肯定した。

シュタゲは、収束する世界線への抵抗の可能性として、誤配を描いた。

一方で、QFの問題系は、子どもの失敗を許さない母性のディストピアに対して、失敗する自由を肯定する思想として誤配を描いた。

それらは、誤配という概念をふたつの仕方で描いた作品であったといえるだろう。


シン・シン・エヴァゲリオン論-庵野秀明において、庵野秀明を超えて


父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。(ヨハネの福音書)


では、新劇は、どうだろうか。

庵野秀明は、一言で言えば東浩紀において、東浩紀をこえた。QFの構想をさらに高いレベルで庵野秀明は実現している。

だから、私は庵野秀明において、庵野秀明を越えようと思う。庵野秀明の思想によって、庵野秀明が言っていないことをあえて誤読することによって、誤配させることによって、虚構推理により、不都合な真実を都合の良い真実へ書き換える。さらなる過剰によって、過聴的なものによって、生まれる声の幽霊によって。


その中でキーアイテムになるのがS-DATである。S-DATに関する考察はかなり多く見られるので、下記参照いただきたい。


重要なことは、先程シュタゲとQFで述べたように、S-DATがシンエヴァにとっての世界線移動の契機になっているということだ。

S-DATはなんだったか。

父ゲンドーから、手渡された唯一のもの。父のおそらくクローンである渚カヲルが修理したもの。落ち込むシンジに対して、初期ロットの綾波が手渡したもの。そして、最後に息子シンジから、ゲンドーへと手渡し返したもの。

実はここで、重要なことは、S-DATの移動、その持ち主こそ、エヴァの主人公であったということだ。つまり、エヴァの主人公は碇シンジだけでもなく、碇ゲンドーだけでもなく、常に移り変わるものとして描かれていた。

そして、最後にゲンドーの元へと返ったとき、ゲンドーの願いは成就することとなるのだ。

このS-DATは、QFのなかで、作品内作品として描かれていた汐子の物語である。旧声幽ネットワーク論の中で、論じたように、QFの構造は非常に複雑だが、シンプルにいうと、手紙で終わり、声で終わる。そして、エヴァもまた同じようなことを実は企図していた。詳しくは次章に述べる。


もしも願い事一つだけ叶うなら


初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(旧約聖書 創世記)


この映画ゲンドーは、息子シンジに対しての懺悔をするシーンがある。

会わなかった息子。

これは、実はミサトに共通する。シンエヴァには、さまざまなペアで構成されているが、ゲンドーとミサトは非常にクリアに反転した存在である。ミサトは、カジ・リョウジとの息子のカジ・リョウジに会わないことを決めたのだと語る。

だが、少し待って欲しい。この2人がもしも、「会わなかった」のではなく、「会えなかった」のだとしたら?

ここで、補助線を導入する。

安野モヨコの原作漫画『監督不行届』は、庵野秀明と思われるオタク、カントクくんらと、安野モヨコとロンパースのコメディである。テレビアニメ化もされた。

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安野モヨコ=ロンパースの自画像が、幼児であるということは、重要だ。庵野秀明と安野モヨコの2人には子どもがいない。シンエヴァの会えなかった子どもというモチーフは、子どもに恵まれなかった自分たちの子どもであると読めなくはないか?事実、最終話は、2人にもし子どもが生まれたとしたら、夫庵野秀明は、自分の子どもをアニメの主人公にしかねないという描写がある。

また、この『監督不行届』と言うアニメで、ロンパースを演じていたのは、林原めぐみだった。林原めぐみは、エヴァンゲリオンの綾波レイの声優であるとともに、シンジの母親レイでもある。

エヴァ批評の中では、シン・エヴァンゲリオンは、マリを安野モヨコだとして、庵野秀明を救った物語として読む向きが多いが魂のレベル、つまり声のレベルで違うと言える。ここに、ユイ=林原めぐみ=ロンパース=安野モヨコという等式が成り立つからだ。


では、マリとは誰だったのか。

それは、新劇から追加された宇多田ヒカル的なもの、つまり宇多田ヒカルとその母、藤圭子だったと考える。

宇多田ヒカルの光という名前は藤圭子が遺伝的な視力を失う病気を患っていたことからつけられたという。あのメガネはそのメタファーだったのではないか?

また、マリは度々、歌謡曲を口ずさむ。多くの人があれは、マリがユイとゲンドーの大学時代の友人であるという設定を暗示していると指摘している。だが、もう少し考えて欲しい。藤圭子が歌謡曲のシンガーだったことを思い出せば、その謎が解ける。

さらに、東浩紀は、かつて、エヴァ批評のなかで、アスカが作品の外部として機能しているという論を展開した。その後、それは、東自身によって批判される。詳細は下記のYouTubeを参照頂こう。



マリが時々謎の英語を口走るときがあるが、宇多田は、デビュー当時からリリックのレベルでそのようなことを多用している。

嫌なことがあった日も
君に会うと全部フッ飛んじゃうよ
君に会えない my rainy days
声を聞けば自動的に
Sun will shine
[Automatic]


最後のキスはタバコのflavorがした
ニガくてせつない香り
[First Love]


また、宇多田ヒカルは、15歳でデビューし、浜崎あゆみとともに、かつてアダルトチルドレンとよばれていた。あるインタビューのなかで、自身もシンジと同じくひきこもりたいほどに苦悩を抱えていたことを吐露している。

宇多田ヒカルもまた、98年のデビューから、人間宣言を経て断続的に、活動と休止を繰り返している。これは、エヴァとシンクロしている。宇多田ヒカルもまた終わらない90年台の中を生きている亡霊のような存在である。

このことからも、宇多田ヒカル的なものがマリだということは、間違いない。まだ傍証は存在するが十分だろう。安野モヨコ=マリ説はこうして、完全に棄却される。

そして、最後に駅から駆け出すシーンの謎を考えてみよう。

ここについては、多くの論がある。
一般的な見方は、庵野秀明の地元である山口県宇部市だということで、その観点から論じる向きが多い。

だが、見落としてしまう重要な事実がある。

実は宇多田もまた、山口県とゆかりがあるということだ。徳地というところの地主だったらしい。宇多田家の代々の墓は藤木に存在する。



宇多田は、その母藤圭子をちょうどエヴァQとシンエヴァの間には、自殺で、亡くしている。下記の記事を読めば、その詳しいことが記されている。



庵野秀明は、とあるインタビューにおいてこのように語る。

生まれてから死ぬまでのあいだの部分はやはり自由。極論を言えば、自分で自分の人生に幕を下ろすこともできる。そこまで含めて自由なのだと思う。




これは、時期的に、自殺した母を持つ宇多田ヒカルへのメッセージだと読み取れる。

だとするならは、シンエヴァもそうした庵野から宇多田へとメッセージ、鎮魂の物語として読むことも可能ではないか?

そもそも、ゲンドーの目的とはなんだったか。それは、ユイと出会うことだった。だが、真の目的は、ユイを鎮魂することだったのではないか?

庵野秀明もまた、父親とこの確執を持っていた。シンエヴァを素直に見るならば、かつて憎むべき対象だった父親との和解、そして、過去の子どもだった自分を鎮魂させ、成仏させる試みであったと言える。

ただ、これは完全に虚構推理であるが、庵野秀明は、父親を亡くしているのではないか。と私は思う。あの和解のシーンにはそれほどの深読みをさせてしまうほど、強烈的な印象を受けた。

そして、その父に捧げるための作品がもし、このシン・エヴァンゲリオンだとするならば、全ては辻褄がつく。あくまでも、これは推測に過ぎないのだが、そう私は考えている。

あのマイナス宇宙のなかで、ゲンドーとユイ、つまり父と母を成仏させたのは、もしそういう意味があるとするならば、シンエヴァは、つまるところ、生まれなかった子どもと死んでしまった親に対する鎮魂の物語である。現実では出会えない存在への愛を叫ぶこと。それは、まさしくゲンドーが企図したことに違いない。

それは、エンディングにおいても明らかだ。

エンディングは、宇多田ヒカルのbeautiful Worldで終わる。



そのことを念頭において、歌詞をもう一度思い出してほしい。

もしも願い事ひとつだけかなうなら
君のそばで眠らせて どんな場所でもいいから

この「場所」は、エヴァというアニメ、虚構のことだ。

エヴァもまた、「声」によって終わる。もちろんその声は、宇多田ヒカルの声のことだ。私が、これは、庵野秀明のQFだと書いたのもそういうわけだ。庵野秀明と安野モヨコにとっての生まれなかった子どもへの思い、宇多田ヒカルにとって、自殺した藤圭子の鎮魂。それは、虚構の物語によってしかなし得なかった。

全てのことは、繋がっている。だが、世界の真実からあなたは無意識的に目を背けている。いや、世界の真実は、目だけでは確認できない。それは、決して見ることは出来ない。なぜならばそれは、声に宿るからだ。

耳をすませば。

ゴーストの囁きがあなたにも聞こえるだろう。そうそれは、幽霊の声であり、その幽霊とはあなた自身のことである。福音はもうすでにあなたの中にある。


さようなら、全てのエヴァンゲリオン批評。

「さようならは、また会うためのおまじない」


終劇


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