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シンエヴァ論②真希波・マリ・イラストリアスとはなんだったのか-マリは宇多田ヒカルであるその1

物語の外部はなぜ必要だったのか

前回は、否定神学的に、俗説であるマリ≒安野モヨコ説を否定した。次に、肯定神学的にマリは、なんだったのか?を論じてみたい。

ここで、導入するのはこれもまたシンエヴァ論の中でよく言われる議論である。つまり、マリは外部の象徴であるという言説だ。

前回引用した藤田直哉の議論の中でもこのように書かれていた。

マリは、自己や自意識の外部、他者そのものの象徴だ。

藤田直哉『シン・エヴァンゲリオン論』

同じく精神科医の斎藤環は、誰も言ってくれないのでという自虐もまじえつつ、2013年の時点で、シンエヴァ以前にこのような終わり方を予見していたと語る。それが下記のような記述だ。

キャラの外部、物語の外部、作者の外部に視点を拡張(パン)すること。映画「幕末太陽伝」(ただし構想段階のシナリオ)や「蒲田行進曲」がそうだったように。欲望の相対性そのものを暴露しつつ同時に外部へと向かうこと。あたかも「歴史の天使」(ベンヤミン)のように、物語を見すえながらも未来へと吹き飛ばされていくカメラによって、エヴァという物語に真の意味でのメタレベルを与えること。(中略)そのときエヴァは、妥協とも成熟とも治癒とも手を切った「メタ・ビルドゥングスロマン」として完結し、伝説は上書きされることになるはずだ。

斎藤環『承認をめぐる病』

映像的なレベルまで、マリとシンジが駆けていくあのシンエヴァのラストを予言していたという主張は正しいと言わざるを得ないだろう。しかも当てずっぽうではなく、論理的にこのような結論に至っているのは感服せざるを得ない。

以上のように、マリは物語や庵野秀明という個人の外部、つまり他者として導入されたという見方は、合理的であるし説得力がある。なので、私もその説に則しながら論を進めたい。

では、なぜマリという外部が必要だったのか。

それについてまず考える必要がある。そのことについては、シンエヴァは、庵野秀明の私小説的な物語として語られて論じられてきたという背景を確認せねばならない。なにより庵野秀明自身がインタビューで次のように語っている。

庵野 あとは、個人というかパーソナルってこともあったと思うんですよ。『エヴァ』のキャラクターは全員、僕という人格を中心にできている合成人格なんですけれど、コアの部分には僕がいるんですが、平たく言えば僕個人があのフィルムに投影されているってことですね。
竹熊 プライヴェート・フィルムに近いですか。
庵野 そうですね。

庵野秀明『スキゾ・エヴァンゲリオン』

だが、彼がいうように、エヴァンゲリオンのキャラクターは、全員庵野秀明という人格をもとにつくられているというのは本当だろうかという疑問は当然あって然るべきだろう。作者である彼が語るのだから間違いはないと信じてしまっても良いのだろうか。庵野秀明こそが、ユダだとしたら?

そういった疑問については、斎藤環の議論が一つの回答を与えてくれる。彼はつまるところ、エヴァンゲリオンとは、シンジ、アスカ、レイの物語だとした上で、それらのキャラクターは、「承認をめぐる葛藤」のありようとして、分類可能であるという。

すなわち「承認への葛藤」「承認への行動化」「承認への無関心」であり、これらの「病理」が、それぞれシンジ、アスカ、レイの三者の造形に対応している。  あえて「診断」を試みるなら、承認を巡って葛藤し続け行動を抑制しがちなシンジはいわゆる「ひきこもり」(診断名ではないが)、社交性が高く承認を勝ち取るための行動化にためらいのないアスカは「境界性パーソナリティ障害(境界例)」、承認されることに関心を示さず命令のまま行動するレイは「自閉症スペクトラム障害」に対応している。もちろんこれらは診断ではなく類型的な比喩に過ぎないが、葛藤構造としてはそう異論はないはずだ。

斎藤環「エヴァの呪縛、その成立と解放」

このような三者三様の特徴がある一方で、庵野秀明はそれぞれに自己の人格が投影されているという。そんなことが可能なのだろうか。

斎藤環は、それは十分に可能であると断言する。
以上の三類系は、個人の気質や不可分に身についた「病理」ではなく、個人や他者や環境と関係するときに、選択されるモードのようなものだと論じている。作品制作においては境界例モード、素の個人としてはひきこもりモード、妻といるときなど退行的な場面では発達障害モード。というような具合に。

そして、これらの葛藤のモードこそが、現代の葛藤のあり方を象徴するものであり、エヴァが四半世紀にも渡り、特に若者に支持されることができた要因である。それは、ある種の「未熟さ」の自己開示のようなものである。だが、一方でその「未熟さ」において、支持されることが、「エヴァの呪縛」として庵野を苛んできたと、斎藤環は論じる。

私もこの理路については、非常にクリアだし、間違いはないと思う。エヴァンゲリオンは、正確には、新劇以前のエヴァンゲリオンは、そのような庵野秀明という自己の投影だった。だからこそ、それを破壊するためには外部である存在が必要だったのである。

物語の外部とは何か-東浩紀のアスカ評価について

物語の外部は、庵野秀明が自らにかけたエヴァという自己撞着の呪いを解放するために要請された。

だが、そのような物語の外部的な存在として、旧劇の東浩紀のアスカ評価とそれへの自己批判を忘れてはいけないだろう。なかなかその原本は入手が困難なので、友人であるコロンブスこと倉津氏が簡潔にまとめた動画があるので参照されたい。

東浩紀の旧劇アスカ評価は、乱暴にまとめると、物語の外部であるから良いというものだ。アスカは第三東京市の外側から登場し、またシリアスなエヴァにおいて、コミカルなオタクウケの良い設定で浮いている。旧劇とは、庵野秀明自身の自己=オタク否定と連動している。そういった物語の外部であるアスカへと到達するための物語であったとまで言うのである。確かにそういう見方で旧劇を見ることはできるだろうと思わせる謎の熱量がある。(もちろん、いい意味で)

だが、東浩紀はそういった自身の旧劇論に対して、さらなる批判を加える。そういった物語の外部としたアスカという存在も結局は、内部なのではないかというものだ。それを外部と呼ぶことは結局のところ現実の外部から目を背け、否定する行為であると。ここまで来ると、正直言って何を言っているのかよく分からないという人もいるかもしれないが、要するに、物語内存在には、真の外部たり得ない。そういうことだ。

マリは物語の外部といえるのか?

だとするならば、結局のところ、新劇のマリも外部とは言えないのではないか?なぜならば物語内存在なのだから。確かにそういう批判は有効だろう。マリもまた第三東京市の外部からパラシュートで降ってくる。が、それも、アスカの反復でしかない。

だから、東浩紀がアスカを否定したように、私たちは、マリもまた外部ではないと否定すべきなのだろうか?

それについては、マリとはなんだったのか?という問題をまず考えなくてはいけない。ここで重要なのは、エヴァで監督の一人をつとめた鶴巻の発言だ。(なお、庵野秀明は、総監督であるので誤解なきよう)

破の時点で彼は、「シンジを寝取ってしまうことで、それまでのキャラクターの関係性を壊す」、「マリを物語の外からやってきたメタフィクション的美少女にする必要がある」という趣旨の発言をしていたようだ。(『破 全記録集』)

さらに言えば、坂本真綾の演出も鶴巻が主体で行なっていったらしいことも含めて、庵野秀明以外の要素をいかにして盛り込み、エヴァ=庵野秀明という脳内世界を壊す目論見があった。だから、藤田直哉が言うように、「マリは自己や自意識の外部、他者そのものの表象」であることに間違いはない。

だが、前回述べたように、それではまだ不十分である。物語の外部とは何かについてもっと私たちは思い巡らせる必要がある。だが、それにはまだ材料が足りない。

ここで、わたしはある小説を召喚したい。それは、同じく東浩紀が書いた『クォンタム・ファミリーズ』という小説だ。彼は、先ほどのアスカ論への再批判を、同じく物語の形で行った。どういうことか。

東浩紀『キャラクターズ』の失敗と『クォンタム・ファミリーズ』

とはいえ、ここで、東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』の中身を詳細に展開することはしない。以前に書いた拙論を抜粋的に再構成してみようと思う。少なくとも、現時点で日本における最高のクォンタム論だと自負をしているので、興味があれば読んでみてほしい。(とはいえ、そこでも中身については詳しくは書いてはいないが)

本論の中で、重要なのは、この小説は自身のアスカ論への批判の批判として読めるということだ。そして、驚くべきことにその回答は、ほとんど庵野秀明がシンエヴァで出した回答とシンクロしている。どういうことか?

東がこの小説で三島由紀夫賞を受賞した時のコメントで述べるように、この小説を書くにあたって、娘の誕生というのが非常に大きかったようである。だが,東は自身が娘を愛し,平穏な家庭を築いているというこの現実が信じられていないという。むしろこの小説は,その現実をこそ虚構化させるために書いたとまで語る。客観的に見て破滅主義に類するようなことを言っている東だが,この幸せな自分とはまた別の可能性があった自分がいるという想像力を抱いている。そういった可能世界の人生こそが本当の人生だったのではないかと彼は感じている。

このような可能世界の私というのは、庵野秀明で言えば、自己の投影されたキャラクターと似ている。東浩紀は、桜坂洋とともに、この小説の前に文字通り『キャラクターズ』と呼ばれる分裂した東浩紀をキャラクター化した小説を書いているが、この『クォンタム』では、そのテーマをさらに深化させている。

敢えて、アフォリズム的に書くならば、庵野秀明が、旧劇で陥った問題を新劇で乗り越えたように、東浩紀は、『キャラクターズ』で陥った問題を『クォンタム』で乗り越えた。そして、それらは、不気味なもの=物語外である現実を物語の中に滑り込ませることによって。

ここでいう『キャラクターズ』の失敗は、庵野秀明の失敗を反復している。つまり、私という存在をいくら分裂させたところで、それは東浩紀の自己像にすぎない。意図的に導入された桜坂という外部も、あまり機能しているとは言い難い。東浩紀の東浩紀によるパロディ、徹底された反私小説というのが正しい評価だろう。

庵野秀明は、アスカという物語の外部を導入しようとして失敗した。東浩紀は、桜坂洋という外部を物語の中に導入することを失敗した。ただ、この失敗はともに必要な行為だったと言える。

では、このような失敗を東浩紀は、どうやって『クォンタム』で乗り越えたのだろうか?

東浩紀は、反私小説的なものではなく、むしろ私小説の徹底、正確には過剰さによっての乗り越えたのである。

先ほど述べたように『キャラクターズ』は、私の分裂といった面で、反私小説的なものを徹底しようとするものだった。東浩紀という存在をひとたび読者が理解しようとするとき、それは次の瞬間、常にすでに否定され、メタ的な東浩紀へと回収される。否定神学による東浩紀の神話化とでも呼んでもいいのかもしれない。

だが、一方で『クォンタム』は、逆で、肯定神学的なアプローチが取られる。あれもこれもどれも等しく、東浩紀である。

あれもこれも私ではないキャラクターである(否定神学的反私小説)と、あれもこれも私である(肯定神学的過私小説)。

ここに大きな違いはあるのだろうか?ないとも言えるしあるとも言える。だが、私は明確にあると思っている。

ネタバレになるが、『クォンタム』で重要なのは、繰り返し作中で繰り返される不気味なフレーズである。

だいじょうぶ,だいじょうぶ,みんな暗くなったらおうちに帰るんだから,汐ちゃんが連れていってあげるんだから。

東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』

この汐ちゃんというのは、物語の中では汐子とされているが、受賞時の実の娘である汐音であるということは間違いない。つまり、このフレーズにおける「みんな」とはつまり,著者である東浩紀=葦船往人や私達読者に対しての呼びかけであり,この小説から物語外へと連れて行ってあげるということを意味しているのである。

ここで、東浩紀が旧劇のアスカを庵野秀明によるオタクの自己批判と評したことを思い出してほしい。アスカは、庵野秀明による庵野秀明の拒絶=否定であった。同じく東浩紀のキャラクターズは、東浩紀による東浩紀の否定であった。

だが、クォンタムにおいては、物語の外部から汐音という他者を物語内部に召喚し、他者によって連れ出されるという構造になっている。同じく、シンエヴァは、マリという他者を物語内部に召喚し、自己のエヴァという呪縛から解き放たれる物語だったと言える。二人の出した答えは驚くほどに似ているのである。

あまりにも長くなったので一旦ここで今回は終える。


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