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連載小説|ウロボロスの種

▲ 前回


十三日目

 雨が降り続いていた。
 私はホテルの蝙蝠傘を借りて、外へ出た。海の方角の街並みの向こうに、〈木〉の枝々が広がっていた。ここから〈木〉が見えたのは初めてだった。 
 私は海へと向かった。すれ違う人も傘をさしていて、顔が見えなかった。
 そびえ立つ〈木〉が、さらに大きく見えてきた。 

 砂浜の様子が、いつもと違っていた。
 白いローブの女たちがいなかった。波が、巨大な幹のふもとまで押し寄せていたのだ。
 私は一つの人影を見つけた。それはリリィだった。リリィは傘もささずに〈木〉を見つめていた。
 私はリリィのところまで歩き、話しかけた。
 「何をしているんですか」
 「〈木〉を切ろうとしている人がいるらしいという噂を、バーでたびたび耳にしました」
 リリィと私は、〈木〉の下の波打ちぎわまで歩いた。
 幹に波が打ち付けていた。落ちる雨粒が、海面に波紋を広げていた。雨粒は波紋の種だった。見上げると、うねる枝々から、茶色い卵のような実がぶら下がっていた。
 「生えているのかしら。それとも刺さっているのかしら」
 私は砂に枝を立てたときのことを思い出した。そして道化師のことも思い出した。
 「行きましょう」
 そうリリィは言い、歩き始めた。私はついていくことにした。

  私たちは町の通りを歩いた。
 花屋やジェラート屋を通りすぎ、リリィは広場へと入っていく。
 私は立ち止まった。
 リリィは私のほうをふり返り、
 「行きましょう」と言った。 

  道化師は雨の中、頭を下げ、おじぎの途中のまま止まっていた。
 リリィと私はその前に立っていた。
 リリィは手のひらを私に見せた。それから握りこぶしを作って、言った。
 「石の中には、何が包まれている?」
 私が答えられないでいると、リリィは握りこぶしをゆっくりと開いた。
 その手の上には、一枚のコインが乗っていた。
 リリィは頷いた。
 私はコインを手に取り、それをそっと、道化師のシルクハットに入れた。
 すると道化師が自動人形のように動きだしたので、私は思わず後ずさりした。

  道化師は、ゆっくりと頭を上げ、おじぎをし終えた。
 それから道化師は、片手でシルクハットをもち、もう片方の手で、シルクハットの中に何かを振りかけるような仕草をした。
 道化師はシルクハットを傾け、リリィと私にシルクハットの中を見せた。
 なんと、私が入れた渦模様の貝蓋は、透明になって光っていた。
 私は唖然としたまま、その透き通った輝きに見とれていた。
 「やっと見つけたぞ!」
 その声に驚いてふり向くと、一人の老人が傘をさして立っていた。それはタウゾの父親だった。
 「どうしたのですか」
 「あんたを探してたんだ。あんたは言ったね。私の石がクリスタルでありますようにと、石に願ってはどうかと。しばらく前、私は半信半疑で、そう石に願ってみたんだ。すると何もかもが変わったんだ」
 「何があったのですか」
 「人が訪ねてくるようになったんだ。みな礼を言いに来たんだ。クリスタルのおかげで願いが叶ったと」
 タウゾの父親はそう言うと、遠くを見るような顔をした。
 「ほら。あれが聞こえるか」
 耳を澄ませると、地鳴りのような音が響いていた。
 音は次第に大きくなった。
 洪水のように、人が広場になだれ込んできた。人々は傘もささず、広場に散って走り回った。
 人々は歓喜のうちに踊っているように見えた。
 やがて、耳をつんざくような轟音とともに、大蛇が広場に入ってきた。
 大蛇は広場の中をうねるように動いた。太鼓隊が激しい音を鳴らしていた。
 傘を持たずに走り回る人だけでなく、傘を持って見る人も増えてきていた。傘をさしているのは「市街」の人々だと分かった。
 大蛇はひとしきり広場をうねって回ると、蒸留所方面の大通りへと出て行った。傘を持つ人も持たない人も、そのあとについていった。リリィもついていこうとするので、私もあとに続いた。タウゾの父親は道化師の前で棒立ちになっていた。
 大蛇は、町の通りという通り、路地という路地を進んだ。あとに続く人もさらに増えていった。ボヘミアン地区の人々と「市街」の人々とが混ざりあって進んだ。
 石鹸屋のある角へと差しかかったとき、そこに白いローブの一団がいた。一団は大蛇に向かっていっせいに腕を振り、海の方角を指し示した。
 大蛇は大通りを、海へ向かって突き進んだ。町のすべての人かと思われるくらいの大群衆が、大蛇のうしろにいた。
 大蛇は海に着いた。〈木〉がそびえ立っていた。そのふもとに三つの人影があった。
 大蛇は〈木〉に向かって進んだ。三つの人影は三人の男のものだと分かった。押し寄せる波に足を取られまいとふんばりながら、巨木のふもとに斧を振り下ろしていた。
 大蛇は波打ち際に入り、大きな口を開けて男たちを威嚇した。男たちは一心不乱に斧を振り上げては振り下ろしていた。
 追いついた大群衆から、口々に声が上がった。
 「やめろ!」
 「実が欲しいだけだろう!」
 「災難を招きたいのか!」
 三人の男はやめようとしなかった。だが、〈木〉の皮が堅く、斧の刃が入っていかないように見えた。
 大蛇は身をうねらせ、威嚇をくり返した。
 それがどれくらい続いたかは分からない。
 突然、私の右膝に鋭い感覚が走った。痛みとも快感ともとれないような感覚だった。
 そのとき、斧の一つから「カッ」という鮮やかな音が鳴り響いた。
 三人の男は斧を振るのをやめ、音のしたところに寄り、何やら話をしていた。
 するとそこから何かが出てきて、男たちはのけぞった。
 蛇が裂け目から出てきたのだ。
 蛇は〈木〉を登り始めた。裂け目から、次から次へと蛇が出てきた。蛇たちはみな〈木〉を登った。
 枝までたどり着いた蛇は、口を開け、ぶら下がる実を飲み込んだ。実を飲み込んだ蛇は、膨れた胴体で〈木〉を下った。
 巨木はおびただしい数の蛇で覆われた。三人の男は逃げ出した。
 幹を登る蛇たちとすれ違い、ふもとまでやってきた蛇は、膨れた胴体のまま、雨の海を沖へ向かって泳いだ。
 この光景は、すべての蛇が泳ぎ去るまで続いた。


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