ジブリの実験作ー宮崎駿『On Your Mark』論
昨晩、Twitterの方で宮崎駿の『On Your Mark』についてTLが賑わっていたので自分も参加し、少々持論を展開させて頂きました(照)
ほぼほぼ言いたいことは言ったんだけど、『On Your Mark』に関する考察で考えていたことがもう一つあって、恐らくこの意見は既出でないと思われるのでここに書き留めておこうと思う。
その前にツイートを見ていない人のためにも一応その趣旨を簡単にまとめ直しておこうと思う。
『On Your Mark』はジブリの実験作?
『On Your Mark』はCHAGE&ASUKAの依頼で宮崎駿が作ったショートフィルム。
本作は僕の記憶の限りはチャゲアスのライブと『耳をすませば』で同時上映されただけであり、すくなくともジブリ作品の中では圧倒的知名度の低さを誇る一作だと思う。
しかし一部のファンの間では非常に評価が高い作品でもある。
その所以は『On Your Mark』が実験作として論じられるくらい、ジブリっぽくない性格を持っている点にある。
作品冒頭では「ジブリ実験劇場」というキャッチが入っており、確かにこの実験性に関しては様々な観点から論じることができるだろう。
しかし僕は俗に言うほど、つまり宮崎がアニメーターとして新しいことに取り組んだという意味での「実験作」ではないと思う。
何故なら実験という割に技術的な意味での挑戦はさほど感じないから。
むしろ押井や大友がやっている土俵で宮崎が「自分だったらこうやる」というような温めていたアイデアを披露しただけのように見える。
宮崎という天才が踏み入れたことのない土俵で力を振るえば「できるだろうな」という内容なのだ。いや確かに本当にすごい作品なんだけどね。
しかし、本作が公式見解としても「実験作」の範疇に留めおこうとされた理由はいくつかある。
ひとつは、チャゲアスのミュージックビデオという形で制作されたジブリ史上極めてまれなビジネス上の所以、もう一つは宮崎駿が保とうとしていた方向性からの逸脱といえるだろう。
いずれにしろ「こういう作品はこれっきりだぞ」という意思表示ととって問題ないだろう。
実験云々はこの辺にして、今回はその辺から少し視点をずらして本作を論じていきたいと思う。
宮崎の永劫回帰ー『火垂るの墓』への批判
さて、ここからが今回noteで書きたかったこと。
岡田斗司夫は本作『On Your Mark』のストーリー構成に関して「胡蝶の夢」として、全てが夢でありながらもその全てを現実として受け止めると解釈し、これを押井への批判だと論じている。
レベル3で、このお話の構造全体について「胡蝶の夢」、つまり「自分が蝶々になっている夢を見ているのか、蝶々が自分だという夢を見ているのかわからない」というふうに語りましたけど。
それは「どれが現実か結局わからない」という誤魔化しではないんですね。
「どの夢であっても、全てを現実として受け止めて生きる」。これが、宮崎駿が語ろうとしている永劫回帰なんですよ。
「永劫回帰」という言葉を、コンテにわざわざ入れているのは、「これが本当だ!」ではなくて、「このお話の中に流れている、バッドエンドもハッピーエンドも、全てが現実であって欲しい。あるべきである」という意味なんですね。
で、これね、ハッキリ言って、『ゴースト・イン・ザ・シェル』とか『ビューティフル・ドリーマー』をやった押井守への、もう完全な批判なんですよ。
宮崎駿の最高傑作『On Your Mark』解説[後編]
はいはい、これはこれで凄くわかる。笑
しかし、この永劫回帰という概念を押井批判か高畑批判かと取るかは『On Your Mark』を深読みする上でひとつの大きな分水嶺なんですよ。
それはバラバラに展開するストーリーやそれぞれの結末を全て肯定するものとして取るか、ループを繰り返した結末としてハッピーエンドが最後に来ているかという違いで、僕は後者を取りたいと思う。
その理由はシンプルで、作品の構成上、やはりハッピーエンドで終わっていると解釈するほうが自然だと思うから。
そしてそれは高畑勲『火垂るの墓』への批判と取ることができる。
これも岡田斗司夫が『火垂るの墓』の清太がいるところを「煉獄のようなところ」と言っていることに関係するんだけど、ズバリ僕も『火垂るの墓』は煉獄概念を採用し、その見取り図にそって精緻に組み立てられた作品だと思う。
煉獄とはキリスト教上、地獄と天国の間にある世界で、そこで人間は自らが生前に犯した原罪を”悔いる”ことができるまでその罪の体験を無限に繰り返すというようなものになっている。
そしてそこでは、まだ生きている信者が煉獄にいる人々が天国に行けるように祈ること=現世における自分の原罪を批判するといったキリスト教の教条的な力学が働いている。
高畑はこの力学をアニメーションによる戦争批判に援用して『火垂るの墓』や清太を通じて我々の原罪を批判するのだ。
これはかなり完璧な批判で、だからこそ我々は『火垂るの墓』の視聴を通して清太の成仏?を祈ることで戦争、もしくはそれを超えた本質的な自己批判と直面する。
しかし一方で、この批判はシビア過ぎて逃げ場がなく、我々は永遠に過去の過ちとこれから犯す過ちを悔い続けるしかないという絶望的な円環論を導出してしまう。これは高畑が煉獄力学のチューニングを切り詰めすぎた結果ともいえる。
そして、個人的に高畑が作り上げた火垂るの墓理論には一点においてほころびがあると思っている。
それは宗教学を土俵にしたばかりに、超越的な視点に立ちすぎたこと、そいて救いがないこと。あ、ふたつか。笑
いずれにせよ救いがないなら、我々には祈る意味さえ無いではないか。
高畑の批判自体は完璧だが、だからこそ宮崎は夢が必要だと『On Your Mark』で説いているのであり、それが絶望的なループを繰り返しながらも達成される天使の救済なのだといえる。
宮崎は「俺たちはまだ夢で節子を救える!」と言っているのではないだろうか。
永劫回帰というニーチェの思想についても、救済されるために自己を批判するキリスト教的な抑圧から解放するために世界が何度繰り返されてもその瞬間の可能性を望むという点において、『On Your Mark』の筋書きは本稿の解釈に一致する上、そこには『On Your Mark』が火垂るの墓ロジックに真っ向勝負を挑む対応関係が見て取れるのではないだろうか。
だから僕は『On Your Mark』はあくまでループを繰り返しながらハッピーエンドを望むような作品なんだと思う。
『火垂るの墓』の呪縛と宮崎駿
こうして解釈すると、一見宮崎は高畑の火垂るの墓ロジックに一発食らわせているように思えるが、そうは問屋は下ろさない。
それは宮崎が『On Your Mark』という夢を語る中で生き生きと戦闘や武器を描いてしまっているからである。
平和や救いの手段、その過程において既に破滅を孕んでしまっているのだ。
『火垂るの墓』の中で高畑は武器や戦闘の虚構性を徹底的に批判しているし、それに加えて戦いへの憧憬は決して戦争オタクやマニアの専有物ではなく、誰しもが抱きうる罪の芽として描いているのである。
例えばそれは清太の父が搭乗する巡洋艦「摩耶」の観艦式においてその船体が全て黒く塗りつぶされ、摩耶を彩る光のみが強調して描かれ、その光に人々が熱狂している様を見ても明らかだ。
つまり『火垂るの墓』における蛍の光とは戦火の持つ圧倒的な虚構性、人々の持つ欺瞞、原罪の象徴と言って差し支えないだろう。
よって、その原罪をもってして夢や救いを描こうとする宮崎はやはり高畑の批判の前に敗れ去っていると言わざるを得ない。
しかしその矛盾こそが宮崎の魅力であり、彼の作家性そのものともいえるのだ。
だって宮崎駿が描く飛行機とか(特に飛行機とか)、メカとか戦闘シーンって100%一級品じゃないですか。
その一方で、『On Your Mark』の最後でも天使は救われるが放射能汚染された農村部にオープンカーで飛び出したチャゲアスは死んでしまうように宮崎はこうした”自分の大好きなもの”が持つ破滅性については非常に自覚的な人物でもある。
特に高畑が『火垂るの墓』を発表した以降の宮崎作品は彼の夢が持つ破滅性と創造性をどう分離するかに終始していると言って過言ではないと思う。
もし、『となりのトトロ』が『火垂るの墓』と同時公開ではなく、後発になるようなスケジュールだったらトトロのような純粋でたおやかな作品は登場しなかったかもしれない。
それほどまでに『火垂るの墓』で高畑が完成させた批判は強烈だったのではないだろうか。
そして宮崎がその全てを総括しようとした巨作が『風立ちぬ』である。
僕のジブリ観は『火垂るの墓』と『風立ちぬ』に非常に依存しているのでどうしてもこうなってしまうが、それほどまでにこの二作は凄まじい。
それでは今回はこの辺で。
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