見出し画像

隠された”ライン”をどこまで読み解くかー映画『パラサイト〜半地下の家族〜』レビュー

 ポン・ジュノ監督の『パラサイト~半地下の家族~』を鑑賞。

 率直な感想としては思っていたほど衝撃は受けなかったが、めちゃくちゃ精巧に作られた映画という印象である。複数の演出文法がキッチリ通っていて非常に理路整然としている。良い映画であることに間違いない。

 これは手前味噌な持論だが、いい映画とは複数の主張や批判の筋が作品全体を通底していて、その筋がうまく結ばれているものだと思う。

 本作『パラサイト』も例に漏れず複数の批判的な筋が通った秀逸な作品である。

 その一つは格差社会に対する普遍的な投げかけ。ポン・ジュノ監督は格差社会に張られている様々な”ライン”を映画というメディアを通して非常に上手く炙り出している。

 ふたつめは、韓国社会に対する深い批判であり、この二つによって本作の批判の射程は広さと深さの両方を獲得していると思う。

 レビューを書こうと思えばいくらでもそれっぽく書けるが、筆を絞るのが非常に難しい作品だとも思う。

 どこまで書き分ける事ができるか自信がないが、今回は上述した"ライン"という見取り図でできるだけ簡単に整理することを目指す。

 ※ネタバレ含む視聴前提の記事です。

 ※一度しか見ていないので細かいシーンの構成、台詞など記憶違いの可能性が含まれます

1-1 張り巡らされた"ライン"を乗り越える緊張感

 本作のレビューとして最もよく散見されるのが格差社会の問題をうまく描き切ったというもの。

 確かに、ポン・ジュノ監督は脚本や演出に緻密なルールを与えることによって高い批判性を実現している。

 そしてその緻密なルールこそ、”ライン”だといる。

 作中でパク社長がギテク(キム一家の父)の運転手ぶりを「一線を越えない点において評価できる」と評価しているように、本作ではストーリー上も画面構成上も、一線、もしくはラインという概念を縦横無尽にうまく使いこなしているのだ。

 例えば、構図やカメラワークにおいてはこちらの記事が秀逸。

 上記のサイトでも詳説されているように、貧富の差、階級の差は徹頭徹尾、画面上で明確に線引きされている。

 そして本作ではそのラインを超えた瞬間、物語が大きく展開するようになっている。

 いくつか例を挙げよう。

①ムングァンがクビにされるシーン
 もとから居た家政婦・ムングァンがクビにされるシーンでは、先ほど紹介した記事のサムネイル画像とは対照的にムングァンが窓の仕切りを超え、パク夫妻と同じ領域で話し合っている構図となっている。

 ムングァンさえクビに追い込まなければ…と考えれば、この件に関しては脚本上キム一家が最も越えてはいけないラインを超えてしまった瞬間だと言えるだろう。

 こうして考えると、本作における"ライン"とは単に画面上に引かれた仕切りではなく、もっと重層的な意味が込められていることが窺える。

 しかし、このシーンに関してはパク夫妻が「経験上この方法が一番いい」とだけ述べ、最後まで明かされなかった家政婦をクビにした理由は未だによくわからない。

 きっと作中のどこかにその答えは用意されていると思うが、残念ながら筆者にはわからなかった。


②ムングァンの夫をダソンが目撃してしまうシーン 

  もう一つ、印象深いのはパク一家の息子、ダソンが夜中にケーキを盗み食いしていると地下室から食料を物色しに来たムングァンの夫と遭遇してしまう場面。

 ここは床に座るダソンの目線で映しているように思えるが、実はカメラが完全に床に置かれた構図となっており(多分)、床の水平線が強調されていることがわかる。

 そしてそのラインを侵すように現れるムングァンの夫のおどろおどろしさと言ったら…非常に上手い!

 まるで餌場で遭遇してしまった捕食者同士のような面白さがよく表されていると思う。

 しかし、ケーキを貪り食う上流階級の子供と生活必需品を調達にくる地下住人の立場は貧富という意味において全くの対照関係であり、やはりそこには明確なラインがある。

 そしてダソンはそのムングァンの夫との遭遇がトラウマとなり、そのトラウマがパク一家の家庭問題になっていくように、地下と地上(リビング)のラインを超えてしまう行為は一種の侵犯として明白に描かれていると言っていいだろう。

 ちなみにパク夫妻が階段を登ってくるカットもこのシーンと似た構図。

画像2

③ギテクとパク社長がインディアンに扮するシーン
 ダソンの誕生日を祝うため、パク社長と共にインディアンに扮するギテクが「社長も大変ですね(こんなくだらないことをさせられて)」と言うと、パク社長は「今あなたは勤務中ですよね?今は職務の延長だと思って下さい」と答えるシーン。

 ここでは一線を越えられることを嫌うパク社長の性格が良く現れているが、この直後には作品上最大の事件が起きる。

 ここでギテクが越えてしまったのは一種の公私の一線だと考えられるが、ここでもやはり何らかのラインを越えることによって最悪の事件の引き金が引かれている。

 何より、このシーンはギテクが一線を越えたのか、越えざるを得なくなってしまったのか、解釈の仕方ひとつで作品の印刷がガラリと変わる。

 既に作中では丘の上から流れる止めどもない雨が半地下の社会を襲い、パンク状態になっていたことを思うと、このギテクの怒りに近い越境は、半地下社会に住む住人の感情を代弁していると考えられる。

画像1

 このように、作中では様々な形でいくつもの”ライン”が引かれ、そのラインが画面の構成上、そして脚本の中で上手くリンクしながら本作を作り上げていることがわかる。

 ポン・ジュノ監督のこの緻密な作品設計には舌を巻かざるを得ない。

1-2 ただ一つの超越された"ライン"

 上述のように、思い返せばラインを越える瞬間は演出上、脚本上共に緊張感が高まるシーンばかりであることがわかる。

 そしてそこで起こるラインの侵犯がキム一家、パク一家の破滅に繋がっていったことに疑念の余地はない。

 それでは、この一線を越えてしまうラインの侵犯とは破滅に直結する行為なのだろうか?

 決してそうではないと考えることができるのが、家庭教師としてのギウと生徒のジソの関係だろう。

 二人は二回目の授業で早々にキスしてしまい、いわば教師と生徒の一線を越えてしまう。作品のテーゼ上、そこに身分階級や貧富のラインが含まれることが自明であるにも関わらずである。

 しかし、最後の事件の直後、パク社長が地下住人の異臭に鼻をつまむのとは対照的に、ジソは気絶したギウの体を懸命に背負っている様子が映されている。

 ジソに関しては、事件直前に上流階級が集まる庭を眺めながら「俺、ここに似合ってるかな?」と聞くギウに大丈夫よと答えるシーンも印象深いが、そもそもパク一家の中でキム一家の”臭い”を指摘しなかったのはジソただ一人であったことも鑑みれば、二人はラインを乗り越えることができていると考えられる。

 また、③における公私の一線として、ギテクが車の運転中にパク社長に投げかけた「それでも愛しているんですよね?」というギテクの質問も印象深い。

 家政婦とその旦那が地下生活の中でも愛を育んでいたように、本作には愛だけは貧富や社会制度に先立ち、制限されないというメッセージが込められているのではないだろうか。

1-3 パラサイトしあう格差社会の是非

 いくら愛が社会という窮屈で不条理な枠組みに対してア・プリオリだとしても、本作の構成上のバランスを考えればあくまでそれは一つのエッセンスでしかなく、むしろやりきれない格差社会のアポリアに対する逃げ道として用意されたと考えるのが妥当だろう。

 前述したように本作は社会格差や資本主義社会に対する鋭い批判だとして支持されている向きがあるが、筆者はどうもそんな単純な投げかけをしているとは思えない。

 いや、確かに社会的な批判性は非常に高いと思うのだが、少なくとも貧困層の問題、もしくは貧困層のためにフォーカスしたものではなく、その射程はもう少し広範でありながらニッチなところを狙っているように見える。

 まず、その射程の広範性とは今回論述したような”ライン”に関していえば、その存在の是非はともかくとして、ラインさえ守っていれば社会は平和に回っていくーという逆説的な指摘をも肯定しうるところにある。

 わかりやすくするために、本作のタイトルを使った問いを立てたい。

「パラサイトしているのはどちらか?」

 家事を外注しなければ生活できないパク一家と、外注を受けなければ生活できないキム一家の関係は、どちらが”パラサイト”しているのだろうか?

 寄生と共生の違いは紙一重であるし、①で指摘したようにキム一家もムングァンを追い出そうとしなければ、ムングァン夫婦と衝突することもなく、パク一家という親の元で共生できたのではないだろうか?

 一言で言えば、キム一家が領分を超えた欲をかかなければパク一家、ひいてはムングァン夫婦もみんな平和に生活できたはずである。

 つまり、本作は富裕層と貧困層の共生の不可能性を描いた映画ではないと考えられる。

 下の記事の方が上手く説明しているかも。

 また、キム一家の半地下生活に関しても、貧しい中にも生きる楽しさが存在する生活だったはずである。

 彼らの臭いが度を越していると言ったって、パク社長がギテクに直接それを言ったわけではない。むしろ、パク社長は自らの品性のためとはいえ運転手の解雇理由もオブラートに包んで伝える努力をするなど、良識ある貴族階級だと言えるだろう。

 よって、この記事で論述してきた格差を象徴するような数々のラインも、それ自体が悪だと言い切れるほどの材料だとは思えない。

 つまり、本作は決してキム一家に自分を重ねて格差問題に鼻息を荒げるような作品ではない。そういう自分本位な解釈がいかに問題かについては以前『JOKER』の記事で指摘したつもりである。

 むしろ本作が指摘したい問題とは、見えないラインに守られた社会のいびつさということができるだろう。

 我々は社会の中でさまざまな"ライン"を引き、それを無自覚に利用している。

  しかしそれは簡単に侵犯でき、且つその侵犯が社会そのものに破滅をもたらすような脆弱な秩序なのである。

2韓国社会への警告

 長くなってきてしまった…。

 本作の韓国社会への問題提起として描かれた伏線やモチーフの考察は他稿に譲ることにするが、学力が高いギウやグラフィックデザインの実力がある姉など、本来は社会で活躍すべき人材が半地下生活を強いられている設定は如実に韓国社会そのものなのだろう。

 韓国軍に勤めていた友人の祖父からもらった石がギウに「へばりついて離れず」に「地下へ誘導する」様なども、韓国社会が抱える問題の根深さを象徴していものと推測される。

 と、ポン・ジュノ監督が数々の韓国社会への投げかけを行なっているという前提に立った上で、筆者が個人的に気になるのは最後の殺戮シーンで庭に置かれた机や椅子の配置である。

 パク夫妻はわざわざ「ダソンのテントを中心に鶴翼の陣のように机と椅子を並べて欲しい。まるでダソンのテントが日本の軍艦で…」と妙に細かく、日本まで引き合いに出した象徴的なコメントで指示をしている。

 調べたところ鶴翼の陣もいくつかバリエーションがあり、パク夫妻は史実に基いた具体的な陣形を指定したことと思うが、残念ながらその部分は思い出せない。

 しかし、ダソンのテントが日の丸であり、その周囲を机や椅子が四方を囲む配置は真上から見れば韓国国旗のような塩梅に見えなくもない。

 もしこのパーティー会場の配置が韓国国旗をイメージしていたとしたら、その国旗上で繰り広げられる殺戮事件は韓国社会崩壊と解釈することもできる。

 まぁ、これはかなり飛躍した推論ではあるが、仮にこの件が国旗と関係なくても、やはり日本との戦史まで持ち出したこのシーンの真意は気になるよね。

 3 総論

 以上、雑にまとめてはきたが、まだまだ切り込んだら面白いギミックがこの作品には盛り沢山といえる。

 例えば、インディアンというモチーフが使われたのが、自分と異なるグループの人々を記号としか認識できず、その真の姿や本質をわかり合うことの不可能性の象徴だとすれば、ダソンの絵がムングァンの夫を直視できないものとして描いていたと解釈することもできるだろう。

 また、ダソンはモールス信号に気づくことができた唯一の人間だったが、作品のラストではその立場はギウに継承されていたことを思い出したい。そしてギウは医者や警察をそれっぽいかどうかでしか見ることが出来なくなっていたはずだ。

 そして、最後にギウが山に登ってパク一家の豪邸の地下に住む父のモールス信号を観測することは何を意味しているのだろうか。

 それは、半地下の人間は地下の人間の存在に気づきながらも何もできないというメタファーなのではないだろうか。

 また、これは半地下⇄地下に限らず、地上⇄半地下など全ての階層を含んでいるだろう。

 このメタファーを作品を総括しながら整理すれば以下のようになる。

 我々は社会の中で"ライン"が異なる人間を直接観測することはできないし、それぞれのラインが侵されるような事が起きれば我々の生活は崩壊の危機に面する。しかし、韓国社会はそのいびつさ故に既にその危機に直面しているのだ。

 本作からは以上のようなポン・ジュノ監督からの辛辣で切実なSOSが読み取れるだろう。

 今回、この映画は数々の輝かしい賞を受賞しているが、どこまでこのSOSが社会に伝わるだろうか。

 この映画の成功がモールス信号以上の価値を持ちますように。

 

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?