To have or To be

『持つこと』と『あること』。
6月に会社の同期が亡くなった翌日に、会社を休んでふと寄った本屋で出会った哲学者エーリッヒ・フロムの本。
最初は意味が分からなかった、『持つこと』と『あること』。
カール・マルクスは『君が”ある”ことが少なければ少ないほど、それだけ多く君は”持ち”、それだけ多く君の生命は疎外される』と言っているけど、これもあまり意味が分からなかった。

ただ先日ふとしたとき(パラアスリートの写真を見たとき)に、『パラリンピックがオリンピックより面白く感じたのは、アスリートの皆さんが、金メダルや栄光を”持つ”為ではなくて、自分という人間を最大限に表現することに努めていた(その先に金メダルや栄光があった)、つまり自分が”ある”ということを”持つ”ことに対して、優先順位として先に持って来ている人が多かったからなのではないか』と思った。

少なくともパラアスリートの選手は、日常生活においても少なからず健常者に比べて障害が多い日常を送っていらっしゃる方が多いだろうから、普段どんなご苦労をされているんだろう、とか(勿論それを苦労と思っていない方もいるかもしれないけれど)、普段から我々に出来ることは何なんだろう、とか、オリンピックを見ているだけでは考えないようなこともいっぱい考えて見ていたから、視聴者側の感情による部分も大きいのかもしれないし、

それに勿論、(”ある”ことを最大限に楽しんでいたからこそ、上手く波を作れなかった競泳男子で唯一銀メダルを獲れたんだろうなと勝手に思ってる)クラブチームの後輩の本多灯君や、萩野公介君、米スイマーのドレセル選手、米体操のバイルス選手など、オリンピックでも”自分は今ここにいるんだ”という表現をした選手もいたので、一概にこう、とは言えないことは分かってる。

ただ、それでもオリンピックにおいて『ある』ことにフォーカスが当たった回数は、パラリンピック対比では圧倒的に少なかったように思う。
もしかしたらメディアがメダルの数ばかり追いかけていたからそう見えてしまっただけなのかもしれないけど、少なくとも1人のスポーツファンとしては、直感的にそう思った。

もしこれが他の人たちも感じていたことなのだとしたら、パラリンピックはとても大きな気付きを私たちに与えてくれたと思う。

先日も別の記事で書いたけど、世界は色鮮やかだからこそ美しい、これはつまり『地球上に”ある”ことが多ければ多いほど、地球は多くの種や生命で色鮮やかになり、人間が”ある”ことが多ければ多いほど、社会は平等かつ文化的な活動に溢れるようになり、感情が”ある”ことが多ければ多いほど、私たちは生を感じられるようになる』のではないか、と言うことで、あるべき社会のカタチ、私たちが目指すべき社会・生活の在り方は本来こうなのではないか、と。

先日の記事の繰り返しのようになってしまったけど、時間を置いて、改めてパラリンピックを振り返って見ると、俺は『生きるということ(原題:To have or To be)』とオリパラから、人生にとって物凄く大事な視点に気付かせてもらえたのかもしれないな、と。

同期が亡くなったときはどう受け入れていいか分からなかったし、今もまだ本人の眠っているところに行けてはいないけど、少なくとも上記の二つから、俺は『生きるということは、今この瞬間に”ある”ということを大事にするということで、それに気づいた人間の責務として俺は、この”持つことこそが正義で、持たなければ生きてはいけない”くらいの圧力を感じるこの社会に亀裂を入れ、一人でも多く”ある”ことを大事にして生きられる人を増やす努力をすべきなのかな』というところにまで辿り着いた。

とか言いつつ、最近は『”持つ”ことを強要してくる暴力的な業務』に追われて心の健康が損なわれがちで必ずしも上記の方向に真っ直ぐに進めているわけではないので何とも申し訳が立たない状態だけど、一先ず進むべき方向は見えた(正確に言うとぼんやりは見えていたけど、超シンプルな言葉に落とし込んで視界をクリアにするところまでは行けていなかった)ので、ここまで来たらあとは迷うことなく、非暴力・不服従の色鮮やかな道を進むだけなのかなと。

毎日心を燃やして動いているので、勿論疲れる時もあるけど、それもそれでまた新しい色になる、と思えば少し楽になるので、肩の力は抜いて、頑張ろう。

良い人生、良い社会、生命が漲っている地球になると良いっすね。

おやすみなさい。


(今日の言葉)
「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(カール・マルクス)


(終わり)

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