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神田川を走る。現実を走る。

前回、前々回と川を走るということについて書いてきました。

前回は東京の隅田川、続いては同じ東京の一級河川である神田川について書いてきたいと思います。


神田川。

私の人生の中で最も馴染み深い川がそれである。なにしろ20年近くの間、私の生活圏を絶えず流れていたのだから。

私は先日27になった。ロックミュージシャンは27で死ぬというジンクスがあるが、(幸か不幸か)私にはロックミュージシャンに値する資格はないようだ。
そんな27年間の人生のうちの10年ほど、私は神田川を走り続けた。中学から大学卒業までの間だから、ちょうど青春時代と呼ばれる時代の10年間だ。私の青春時代をこの川は常に流れていた。
その間、私はさまざまな現実を見てきた。楽しい、生まれてきて良かったと思える現実もあれば、辛く、死んでしまいたいと思えるような現実だってあった。

現実。この言葉について、私は以前の投稿で伊藤計劃の言葉を引用した。

「すべてが数えられ、予測され、制御しうるとき、その世界とは一体なにか」という仮定を突き詰めていった結果、MGS2はこういう結論に達する。それは仮想現実だ、と。人々はすでに仮想現実の中に生きている、という認識。現実そのものが仮想的であるというヴィジョン。
伊藤 計劃. 伊藤計劃記録 Ⅰ (Japanese Edition) (Kindle の位置No.145-148). Kindle 版.

現実そのものが仮想的であるというヴィジョン。都市という空間で生まれ育った私にとって、この現実は仮想現実だという現実について以前の投稿で文を綴った。

さて、このどうしようもない現実を前にしたとき、一つの疑問が生まれる。
この現実が仮想の、つまり仮にあるものとして想定される現実ならば、この私が存在していることの証明、私が生きていることを、生を実感することは可能なのかという問いだ。
仮にあるものとして想定される、それは裏を返せば、現実にはないものとして規定されているということだ。仮にあるものとして想定される現実とは、現実にはないものとして規定されている現実ということだ。その中で我々はいかように生きることができるのだろう。

かの有名なデカルトを持ち出せば、我思う、故に我在りの言葉でこの問題は片付けられるかもしれない。
しかし、それでは芸も面白みも無いし、何よりランニング部の活動としての投稿である必要がない。だから、ここではもう少し別の視点から深掘りして生きる実感を感ずる術を考えてみたい。


社会学者の真木悠介が提唱する彩色の精神と脱色の精神というものを紹介しよう。真木は「夢」というものに対して更級日記の作者と科学者フロイトのそれぞれの向き合い方を比較し、その違いを明白にする。

『更級日記』にこんな話が書いてある。作者と姉とが迷いこんできた猫を大切に飼っている。あるとき姉の夢まくらにこの猫がきて、自分はじつは侍従の大納言どのの息女なのだが、さる因縁があってしばらくここにきている。このごろは気品のない人たちのなかにおかれて、わびしいといって泣く。それから姉妹はこの猫をいよいよ大切に扱ってかしずくのである。  
ひとりの時などこの猫をなでて、「侍従大納言どのの姫君なのね、大納言どのにお知らせしましょうね」などと言いかけると、この猫にだけは心がつうじているように思われたりする。  
猫はもちろんふつうの猫にきまっているのだが、『更級日記』の作者にとって、現実のなにごともないできごとの一つ一つが、さまざまな夢によって意味づけられ彩りをおびる。  
夢といえば、フロイトのいき方はこれと正反対である。フロイトの「分析」にとって、シャンデリアや噴水や美しい飛行の夢も、宝石箱や運河や螺旋階段の夢も、現実の人間世界の心的機制や身体の部分を示すものとして処理されてしまう。フロイトは夢を、この変哲もない現実の日常性の延長として分析し、解明してみせる。ところが『更級日記』では逆に、この日常の現実が夢の延長として語られる。フロイトは現実によって夢を解釈し、『更級日記』は夢によって現実を解釈する。  
この二つの対照的な精神態度を、ここではかりに、〈彩色の精神〉と〈脱色の精神〉というふうに名づけたい。

気流の鳴る音: 交響するコミューン   真木 悠介

ここで行われているのは「主観」と「客観」の対比だ。真木はさらにこう続ける。


冷静で理知的な〈脱色の精神〉は近代の科学と産業を生みだしてきた。たとえばフロイトはわれわれの「心」の深奥に近代科学のメスを入れようと試みたパイオニアである。そして科学と産業の勝利的前進とともに、この〈脱色の精神〉は全世界の人びとの心をとらえ、その生きる世界を脱色していった。  
森の妖精や木霊のむれは進撃するブルドーザーのひびきのまえに姿を没し、谷川や木石にひそむ魑魅魍魎は、スモッグや有機水銀の廃水にむせて影をひそめた。すみずみまで科学によって照明され、技術によって開発しつくされたこの世界の中で、現代人はさてそのかげりのなさに退屈し、「なにか面白いことないか」といったうそ寒いあいさつを交わす。  
世界の諸事物の帯電する固有の意味の一つ一つは剝奪され解体されて、相互に交換可能な価値として抽象され計量化される。  
個々の行為や関係のうちに内在する意味への感覚の喪失として特色づけられるこれらの過程は、日常的な実践への埋没によって虚無から逃れでるのでないならば、生のたしかさの外的な支えとしての、なんらかの〈人生の目的〉を必要とする。

気流の鳴る音: 交響するコミューン   真木 悠介

仮想現実。すべてが数えられ、予測され、制御されうる世界、それは全てが客観的に観測できる世界である。そしてその客観性によって確立された近代科学は世界の諸事物の帯電する固有の意味を一つ一つ剝奪し解体し、相互に交換可能な価値として抽象、計量化する。これこそが我々の生きる実感を奪う根源であり、この仮想現実を強奪者に仕立て上げているものに他ならない。

だからこそ、その強奪者に立ち向かいたいならば、この日常の現実を夢の延長として語る力、つまり主観性という武器が必要になってくる。

この主観性を自覚し行使すること、現実のなにごともないできごとの一つ一つに、意味を見つけて彩りを与えること、それこそがこの仮想現実という現実を生きる中で私が生きていることを実感することができる方法ではないだろうか。

人にはそれぞれの時間の蓄積がある。それはその人の経験であり、その人の思い出であり、その人の世界である。今まで流れ続け、今も流れて、そしてこれからも流れていく時間の流れ、それを我々は人生と呼ぶ。
その蓄積を私は神田川に残してきた。この川を走るとき、私は私だけの色々な経験や思い出を心のうちに想起することができる。たとえ、同じ景色であっても他の人には見ることのできない、私にしか見えないものがこの川を彩っているのだ。

この川を走るということは、この仮想現実の中の生に彩りを与えることだ。この川を走るとき私はランナーであり、仮想現実に立ち向かうファイターとなれるのだ。







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