【短編小説】揚げ足カフェ

「お客様には、店内で思う存分に揚げ足を取っていただきます」
「思う存分に」
「はい」
「揚げ足を?」
「ええ、揚げ足を」
 女性店員はそう言ってうなずいた。黒髪をサイドテールにして、店のロゴが入った地味な色合いのエプロンをかけた、生真面目そうな人だった。彼女はテーブルの横にじっと立ち、静かに注文を待っている。
 幸一はテーブルの上のメニュー表を手に取った。コーヒー、紅茶、サンドイッチ、カレー、アイスクリーム……。示し合わせたわけでもないのに日本中いたるところに存在する、「ごく普通の喫茶店」といった内容だ。
 しかし、店員の女性のかけたエプロンが、ここがありふれた喫茶店ではないことを告げている。エプロンのロゴはこう読めた。「揚げ足カフェ」と。
 そう、幸一は生まれて初めて、「揚げ足カフェ」に足を踏み入れたのだ。
 彼はメニューにざっと目を通し、尋ねた。
「ええと、オススメはどれですか?」
「パンケーキですね。男女問わずご好評いただいております」
「パンケーキには二種類あるようですが」
「左ページの方はお子様用です。申し訳ありませんが、小学生までしか注文できないことになっておりまして」
「ああ、そうなんですね」
「ええ。つまり、12歳未満限定ということです」
「なるほど……」
 そう言って納得しかけて、幸一はハッとした。メニューから視線を上げ、店員の女性をそっと見やる。彼女は伝票とペンを手にして平然と立っている。
 揚げ足を取るなら、今である。
「『未満』ではなく『以下』ではないですか?」
「え?」
 店員は少し眉を上げた。
 幸一はゴクリと唾を飲み込んだ。そして言葉を続けた。
「だから、『12歳未満しか注文できない』だと12歳は注文できないことになってしまいます。正しくは『12歳以下限定』でしょう? いや、そもそも誕生日によっては12歳でも中学生の場合があるのだから、『小学生まで』を年齢で表現するのは不適切では?」
「たしかに、おっしゃる通りです。大変失礼しました」
 店員はぺこりと頭を下げた。揚げ足を取られても不快な顔をすることなく、謝罪したのだ。
 なるほど。
 幸一は笑みをこぼした。
 これは非常に気分がいい。
「では、大人用の方のパンケーキと、アイスティーを」
「かしこまりました」
 注文を受けて、女性店員は去っていった。幸一はホッと息をつく。少し胸がドキドキしたが、それもやがておさまった。
 通常の社会生活においては味わえないスリルだ。初めてだから、うまく揚げ足を取れるかどうか不安だったが……どうやら店員が、取りやすいように足を揚げてくれるらしい。これなら初心者にもやさしい。
 ある種のゲームのようだ。会社で上司にいびられてたまりにたまったストレスを、うまい具合に解消できそうである。
 落ち着いてきたので、幸一はゆっくりと店内を見回した。店は決して広くはないが、それでも空席ばかりだった。隅の席に男性が一人いて、熱心に新聞を読んでいるだけで、他に客はいない。
 これは、良い穴場を見つけたかもしれない。
 
 先ほどの女性店員は、間もなくパンケーキと紅茶を運んできてくれた。彼女がそれらをテーブルに置くと、幸一は尋ねた。
「普段から、お客さんはこのくらいですか?」
「ええ。ただ休日の夕方は少し混みます。映画に行った帰り道に、パンケーキを食べに来れるのが魅力的とのことで」
「来れる?」
 幸一は店員の言葉を聞きとがめた。普段だったら流すところだが、今日はそうもいかない。大口を開けて待っているワニに向かって、新鮮な肉が投げつけられたかのように。彼はさっそく食いついた。
「『来れる』は『ら抜き言葉』ですよ。正しくは『来られる』。接客業なら正しい日本語を使わないと」
「申し訳ございません」
 女性店員が頭を下げる。二回目で慣れたので、先ほどと比べてかなりスムーズに揚げ足を取ることができた。この上ない爽快感だった。
 揚げ足。
 そんなものをいちいち取っている人間は、社会では間違いなくつまはじきされてしまうだろう。話し言葉というのは不完全、不明瞭なものであるし、それでいて文脈を考慮すればたいてい通じるものである。不備を指摘しなくても会話は進行していくのに、わざわざ話の腰を折る者は白眼視される。
 揚げ足取りというのは、実生活では「会話の邪魔をしているだけ」である。
 しかし、社会的に排斥される心配がない場合には、揚げ足取りというのは気分がいいものだ。相手のちょっとした言い間違いを指摘すればいいのだから、高度な知性は必要ない。小・中学生程度の知識さえあれば、気軽にマウントをとることができるのだ。
 だから、幸一は少し調子に乗った。彼はメニューの片隅に書かれた文に目をとめると、立ち去ろうとした女性店員を呼び止めた。
「あ、待ってください。このメニュー表なんですが」
「はい、なんでしょうか」
「ここは『カロリー』ではなく『キロカロリー』でしょう?」
 幸一はメニュー表を、わざとらしくゆっくりと指でなぞった。
「単位がおかしいですよ。1カロリーは1000分の1キロカロリーでしかありません。パンケーキにこれだけしか栄養がないのだとしたら、1000枚は注文しないと釣り合いません」
 幸一は得意になってそう言った。当然、女性店員は今回も素直に頭を下げるものだと思っていた。ここは揚げ足カフェ。くだらない揚げ足取りも今だけは正義。客は存分に揚げ足を取り、普段の社会生活では味わえない優越感に浸れる店……のはずだった。
 しかしながら。
「お言葉ですが、お客様」
 女性店員は落ち着いた声で、なんと反論してきたのである。
「栄養学の分野では、1キロカロリーを1カロリーと呼ぶことが多いのです。つまり、誤用ではございません」
「え?」
「そのため、お客様は揚げ足取りを試みておきながら、逆にご自分が間違いを犯してしまったことになります」
「え……え……?」
 幸一は困惑した。
 気持ちよく揚げ足を取れるように配慮してくれるものと思っていたが。引っかけ問題のようなものもあるのだろうか。だとしたら、揚げ足取りがよりいっそうゲーム性を帯びてくる。
 だが、そんな生易しいものではなかったのだ。
 幸一は、この店に足を踏み入れたことをすぐに後悔することとなる。
「揚げ足をとるなら正確に。これはペナルティです」
「ぐわあああああああああ!?!?!?!?」
 いきなり顔面に衝撃を受け、幸一は椅子の上でのけぞった。鼻を中心に激しい痛みに襲われ、押し出されたかのように涙がにじむ。自分の顔に何が起こったのか、彼は遅れて気が付いた。
 殴られた。
 しかもグーで。
「な、何をするんだ!」
「おや。メニュー表に書いてあったはずですが」
 抗議する幸一に対して、店員は表情一つ変えずに言った。幸一はテーブルに目を向けた。そして彼は、そこに置かれたメニュー表に……ではなくテーブルの隅に、小さく記された一文を見つけた。
 ――揚げ足を取り損ねた場合は、ペナルティとして愛のゲンコツを一発。
「な……え……?」
 日本語で書かれた文だが、脳が理解を拒絶していた。
 いったいこの世界のどこに、店員が客を殴ることがルール化された喫茶店があるというのか。カフェという文明と暴力という野蛮の結合にしては、あまりにもいびつだった。
「おかしいだろ、なんで殴られなきゃいけないんだよ……!」
「違います、お客様」
「ち、違う……?」
「そこは『メニュー表には書いていない。書いてあるのはテーブルだ』と言うべきところでしょう。揚げ足をとるなら徹底的に。残念ながらまたペナルティです」
「ぐわあああああああああ!?!?!?!?」
 幸一はまた殴られ、椅子ごとひっくり返った。床に肘を強くぶつけて悶絶する。しかし女性店員は、苦しむ幸一のことをあまり気にしていない様子だった。
「ちょっと店員さん」
「はい、ただいま」
 女性店員は、店の隅にいたもう一人の客に呼ばれて歩いていった。てっきり、暴力行為に対する何らかの抗議かと思ったが……全然違った。
「え、アイスティーが?」
 よく聞こえないが、客の男性は運ばれてきたグラスを指さし、何か文句を言っている。彼も店員の揚げ足を取っているのだろうか。それとも単なるクレームか。はっきりと聞き取ることはできないが……これだけは分かる。彼は殴られた幸一をまったく気にしていないのだ。それはすなわち、この喫茶店ではあのような世紀末的暴力行為は日常茶飯事であるということ。
 もしかして……。
 痛みをこらえながら、幸一は気づいた。
 もしかしてここは、自由に揚げ足を取れるカフェではなくて。正しく揚げ足を取らないといけないカフェ、だったのか……?
 揚げ足を取るのは、権利ではなく義務だったのか……?
「ハァ……ハァ……」
 痛みのせいで、幸一は荒い呼吸をしながら床でもがいた。女性店員は戻ってきて、彼を助け起こす。
「ゼェ……ハァ……うぅ……」
「失礼しました。どうも手違いでアイスティーのご注文が、あちらのお客様と『じゅうふく』していたようでして。しかしご安心ください。すでに問題は解決しました」
「ハァ、ハァ……『じゅうふく』じゃなくて『ちょうふく』でしょう?」
 幸一は椅子に戻りながら揚げ足を取った。また殴られてはかなわない。今度こそ正確に言葉尻をとらえ、立て直さねば。そして反撃の機会をうかがわねば……。
「お言葉ですが、お客様」
「え……また……?」
 だが、現実は無慈悲だった。
「『じゅうふく』と『ちょうふく』は両方辞書に載っており、どちらも誤りではございません。よってペナルティです。誤った指摘をする方にはすべからくゲンコツを受けていただきます」
「そ、そんな引っかけ問題ぶごわあああああああああ!?!?!?!?」
「さあ、すぐに起きていただきますよ。……何をぼんやりしているのですか。揚げ足を取ってください。ここは、『すべからく』を『すべて』の意味で使うのは誤用だと指摘すべきところでしょう? それができないならさらにペナルティです」
「ちょっと待っぎょわあああああああああ!?!?!?!?」
 幸一は殴られ続けた。
 揚げ足を取り損ね、取り損ね、殴られ続けた。
 いつまでもいつまでも、殴られ続けた。