小学生時代 ピークを迎えたサッカー少年

1992年4月、僕は愛知県名古屋市で生まれた。

今となっては名古屋で生まれてから幼稚園時代の記憶はあまりないが、とにかくじっとしていられない子供だった。
いつも外で怪我して泥だらけになりながら走り回っていた。

幼稚園の年中のタイミングで、大阪府豊中市に引っ越した。
通っていた幼稚園にはボールとゴールがあり、気付けばみんなとサッカーをしていた。

卒園と同時に友達と地元のサッカースクールに入ることに。スクールの選択肢としてガンバ大阪ジュニアもあったのだが当時は抽選制だった。僕は抽選に外れて入ることができなかった。

正直、運動神経はよかった。小さい頃はかけっこで負けた記憶がほとんどない。
サッカースクールではエースナンバーである10番を付けていた。
学童の学校別対抗のドッジボール大会にも出場させてもらい優勝もした。

いろんなことが順調だった。
転機が訪れたのは小学4年生のタイミングだ。

ガンバ大阪ジュニアに入団するための抽選に当たったのだ!

母親が応募書類に足が速いことをアピールしてくれて、そのことが良いアピールになったらしい。
しかし嬉しい気持ちと反面、不安な気持ちもよぎっていた。何事もうまくいっていて特段の苦労もなく過ごしていた中で、新しい環境に飛び込むのは不安だった。

ガンバに通うようになって早々に、僕はこれまでの地元のスクールとの違いに驚いた。

というよりも、レベルが違った。

みんな僕よりうまいし、リフティングで背中に乗せたり変な技をやっていたり。

特に際立ちすごかったのは「我の強さ」「負けず嫌いさ」だ。

練習の最後にはチームを組んで試合形式のミニゲームをやるのだが、勝つと上位のコートに、負けると下位のコートに移動していく。
そのミニゲームの時のみんなの本気度合いが半端じゃない。
本気で感情を露わにブチ切れまくっている。下手な子は、まるで人間じゃないみたいな扱いを受ける。
例えば、

「おい、あいつにボール渡すな!ほーら、取られるやん。」
「何やっとんねんお前!さっさとボールよこせや!」
「負けたん、お前のせいやからな!」
「なんでまたお前と同じチームやねん、きっつ!」
「お前のせいで点取られたんやからな!さっさととってこい、アホ!」
「俺にボール渡しときゃええねん!変なことすな!」

ここは日本か?

この勝負は、チーム分けの時から始まる。
下手な子と同じチームにならないためにこそこそと仕組むのだ。
チーム分けは一円になって順番に、チーム数の分だけ通し番号を言い、番号が同じ者同士がチームになる。そこで下手な子と同じチームにならないようにわざとその子の隣に行ったり、上手い子とチームになるために番号を数えて隠れて位置をずれたり。
そして下手な子が同じチームになっていると、誰もがわかるくらい明らかにふてくされている。
その時に悟ったこと。

ここでは「上手い」「勝つ」が正義。

それ以外はクソ以外の何者でもないのだと。
一度「下手くそ」の認定を受ければパスも渡してもらえない。

周りに自分を認めさせなければならない。

パスを受けてボールを持つだけで緊張する。プレッシャーがかかる。
ガンバに入ってからはそのプレッシャーに打ちのめされていて、まったくサッカーが楽しくなかった。
初めて、サッカーを辞めたいと思っていた。
気付けば母親に相談していた。

「もう、サッカー辞めたい。」

ずっとこれまで、何をやってもうまくいっていた。
初めての挫折だった。
とにかく練習に行きたくない。
練習に行くふりをして、隠れてサボったりしたこともあった。よくある、お腹が痛いと言って休むこともあった。

本当にお腹が痛くなるくらい思いつめていた。
ただひたすら、嫌な気持ちでいっぱいで苦しかった。
嫌な気持ちも限界だった頃、学校から帰って練習に行く前に、家のテーブルに一枚の手紙が置いてあった。

母親からだった。
詳しい内容までは思い出せない。

ただ、僕は号泣していた。
苦しくてしょうがないけど、いつも応援してくれてるんだ。
うまくいっていなくても、自分のことを信じてくれているんだ。
僕の力を信じてくれているんだ。

泣きじゃくりながら練習場へ向かった。
涙が止まらなかった。
いつしか、僕はチームに馴染めるようになっていた。

仲間もできた。

スクール生の中で特別に選抜されるトップの試合に呼ばれ、気付けばスタメンになっていた。
そこから、僕は人生初めてのピークを迎えた。

「小学5年生以下の大阪府大会 無敗で優勝」
「フジパンカップ 関西小学生サッカー大会 ベスト4」

僕は関西ベスト4になった大会を最後に、大阪から神奈川県藤沢市へ引っ越した。
ここから、人生の下降期に入るのだった。

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