白い楓(25)

 俺の投資した半年は一体どうなるのか? あの日俺は悲愴と憤怒とを胸に、足早に帰った。一人で家に着き、枕に顔を突っ込んで、叱られた子供のようにむせび泣いた。俺は一体どうして半年も待ったのか、と時間を無下に扱われたと感じたんだ。そしてお前への強烈な不信で涙が止まらなかった。……
 俺は、お前がどういう魂胆であの対談を俺に頼んだのかを知りたくて、徹底して調べようと思ったんだ。調べなくては、知らないという自覚からなる苦悩で気がちがいそうだったからね。まずお前に電話をした。すると、お前は全く対談のことなんぞ頭になかった。やはりお前は論理の成立しないことばかり口にした。興奮して、俺の話が聞こえていないようだった。何を言おうと、『中崎は最低のくず野郎だ』、『中崎はいい奴だ』の繰り返しだった。これでは全くもって言葉が意味を成していない。あんな興奮と錯乱の仕方はいくら狂人とはいえ、説明のつく事案ではないのだ。初めから冷静に考えればわかることだった。俺はここで嫌な予感がした。言語化されたその予感を胸に、心底から拒みながらも知り合いの薬物取引を行う人間に聞いて回った。ああ、いたんだよ、見つけてしまった。お前に薬物を売りつけたという人間をね。
 俺はそれを真に受けたわけではない。しかし、あれほどまでに魅力を感じた狂人が、中身をのぞいてみれば、とどのつまりが出来損ないのボケナスだった。それは、お前がただの化学物質でできた空っぽの人形だったからかもしれない! そう考えれば、お前の言動も、ある意味で理に適う。お前は、空っぽな狂人の大根役者だったから、罪悪を正当化しようと身近にいる狂人の俺を投影して自己防衛に走ったんだ、という具合にね。所詮ははりぼてだったからさ。だからあの対談でのお前の態度に、俺は自分が切望した狂気を見なかったんだろう、と。
 理解をそこまで進めたとき、お前への憧憬を根絶やしにしようとしたよ。その作家のことも、お前の不能を連想するから、記憶から消し去ろうと決意したのさ。そして今度は、俺がお前を見捨ててやろうと思ったし、二度と連絡なんぞ取ってやるものか、そう思ったんだ。
 しかし、できなかった。どういうわけか、お前を見殺しにすることができなかったんだ。こんなことがあってたまるか、と必死でお前の電話番号を着信拒否リストに載せようとした。……毎度すんでのところで指が動かなくなるんだ。一体どういうわけなのか全く理解ができなかったよ。そして、俺にはまだ調べなければならないことが残っていると確信した。
 それは、俺自身だった。俺は自分の分析を試みることにしたんだ。活字など生まれてこのかたずっと博学を衒うようだと避けてきたのに、自分の存在が理解できない不安に駆られて必死に図書館へ通って学ぼうと意を固めた。まずは手っ取り早く心理学系から攻めていこうと、当該の本棚へ足を運んだ。何冊も本を引っ張り出して机の上に堆く積んだ。はっとなって周りを見渡し、俯瞰した。俺が見たのは、本が隅々まで詰められた本棚がさらに図書館という一つの空間に詰められるという、マトリョーシカのような構造だった。やれやれ、あんな光景には吐き気を禁じえないものだよ。本を読み進めてゆくと、こう記してあった……俺は、自分の狂気は天からの授かりものなのだとばかり思っていたが、その実は全く違ったらしいのだ。『反社会性パーソナリティ障害は、患者の成長とともにその症状が軽くなる傾向がある』、と書いてあった。それは、胃袋の中で突如爆発が起こったかのような驚愕だった。そして漸く俺は理解したよ。俺の狂気は大それたものではない、ただの病気だったのだ。『反社会性パーソナリティ障害』という名前を付けられているうえに、『傾向』、とまできやがった。俺みたいな狂人は唯一無二ではない。俺は治療で回復が望める患者の一人にすぎなかったのだ。そのときの衝撃を表すのに、ここで再びレトリックに頼って終いにするよりは、具体的な話を持ち出した方が理解がいいのだろう。ただでさえ正気と狂気との間に融和を起こすには、夕陽を何度も沈めねばならないのだから。まあお前からすれば、俺が自分の人生を振り返ることで訪れるアンニュイを娯楽にしているように思えるかもしれないね。そして寄り道をしているようにきこえるかもしれない。けれども辛抱してきいてはくれんかね。この話は本題からそれているようで、それてなんかはいないのだよ。
 少年期を過ごした家庭環境はなんでもないありふれたものだ。一般家庭だった。貧困も、離婚も、虐待も、ありはしなかった。テレビを傍目に夜を待てば、湯気を昇らせる白飯が運ばれてくる。家族の目は死んでいたが、それだって別に特に特筆すべきことだとは思わない。何も変哲はないのだ。毎日毎日、飽かずに輝いた目で会話を弾ます家族なんているのかい? 普通の家庭とは裏腹に俺は頻繁に問題を起こしたがね。

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