明の12「浮世のカテーテル」(29)

 人の首を切るのはこれが初めてではない。後ろから対象の口を押え、悲鳴を絶ってから強い力で引っ張る。そうすれば対象は確実に理性を失い、事態を理解できなくなる。そこで首に刃物の先端を入れてゆく。忽ちに血が飛び散り、痛みに耐えかねた対象は倒れる。あとは息の根が絶たれるまでめった刺しにし、八つ裂きにする。
 これは私が後ろから近付いたがために容易に成せる芸当だった。しかし、対象が私を認識している場合はさらに策を講ずる。対象がどう動くのかで全く勝手が異なるのだ。
 私を視認した貫一を前に、私は一切の手段がなかった。閉口し、おののいていた。彼の肌の質は液晶のように滑らかでありながら、呼吸を感じさせない。彼の頬には、右目から右耳へかけて縫合の跡があった。腕組みでのぞける手の甲にも似たような跡がある。私だけではなく、数多の人間の人生の終結を表していた。私は、いつの間にか自分の死をその傷に重ねはじめていた。
 酒を飲みすぎた後のように胃が痛み、何か得体の知れぬものが逆流しようとしていた。
「お前、死を怖れるかね」
 彼は液晶の掟を破り、私に声をかけた。私は答えられなかった。
 私は一本のマッチ棒だった。
 堕胎したての未発達な胎児だった。言語の全てを私は失念していたのだ。
 そうすると、私はいよいよ幼児化が明らかに進んでいった。アスファルトがタイヤで削られる音や、ビルから吹かれる風、街灯の灯を跳ね返す革靴の全てが記号になった。記号は記号でも、私には刺激でしかなくなった。生来初めて味わう刺激が、過剰に周囲に現れて、私に威厳を与えようとしていた。
 心の中で、合わせ鏡の間に入った自分を見ていた。安価な鏡で、薄く青みがかかり、それが遠方に見える自分の像を不明瞭にしている。だんだんと、私の足が歪み、鏡に触れてみるがそれは全くの平面で、実際の私の足も歪んではいない。ネクタイが歪みはじめた。するとネクタイの歪みは渦を生じ、鏡像私の肉体の全てが台風のように螺旋をかたどった。しかし、このすべてを私は改めて理解することができなかった。光がそうやって重力の法を無視することがいかに現実性のないことなのか、全くわからずに眺めていた。
 貫一が唇を横へ伸ばした。薄い微笑だった。
「俺は、怖くはない。きっとお前も怖くなかろう」
 私は合わせ鏡の世界にとどまった。小さな水の粒が額に触れた。上を見ると、雲はなかった。それでも雨は降っていた。次第に雨は強まり、そして弱まった。地面は、水をすべて吸収し、乾いたままだった。地面に触れると、それはビニールのように思えた。私は鏡に向かって歩き出した。鏡に入ると、私は残された側の鏡を見てみた。緑色ですべてが埋め尽くされていて、この場所の何も反射していないことは明らかだった。私は叫び声をあげたが、音も反射されなかった。
 貫一は続けた。
「金にも関心を与えられないだろう」
 彼が私の腕を取り、ホルスターのナイフを抜き取り、握らせた。

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