白い楓(21)

 姪浜駅のロータリーに車を乗り入れ、香山は明に別れを告げたが、彼はその挨拶に沈黙で答え、助手席にとどまって長いこと口を閉じた。
「香山、お前はやはり変だ」
「何が言いたいのか」
「自由がどうのこうの、と話しただろう」
「そうだとすれば、それがどうして変になるのかね」
「どうして、ときたか」
 明が怪訝な顔をして、手の施しようがない、というようにそっぽを向いた。
 香山は、彼が気にかけていることが何たるかに気づいた。香山が内に抱える罪悪にまつわる葛藤が、あらゆる決心を鈍らせていて、それを明は感じとったのだ。
 香山はそう予測して、相談する具合で話すことにした。しかし、人には自分でも分からない自分というものが存在する。今の香山もまさにそうで、自分を苦しめるものが何なのかが分からない。ジョハリの窓で喩えるのなら、「Blind Spot」であることを祈りながら、本題に入ることにした。個人がひた隠しにするその皮を裏返して、そこに書いてある文字を読んでもらうようなものだった。
「申し訳ない……実は、俺も自覚はしている。本当に、自分がやっていることが正しいことなのか、分からなくなってしまった」
「それは人間ならば普通のことだろう。安心したよ」
 と、彼は流そうとした。
「待て、お前はまだ理解していないようだ。俺は……自分のために人を傷つけたり、殺したり、なんてもう苦しくてたまらないんだ。それにきっと、こんな事態をこれから先も、仕事を続ける限り免れない。貫一の配偶者がきっと次の敵だ。もう……」
「頭を冷やしてよく考えるんだね。これ以上は付き合っていられない」
 根幹を何も理解しない明が86から出ようとした。香山はすがる思いで彼の袖を引っ張った。よせよ気持ち悪い、と明が突き放そうとした。
「ちょっと、待ってくれ……」
「待つ分にはいいが、俺はお前に性欲を発揮できないよ。すまないけど、俺はヘテロセクシャルなんだ」
 香山は噴き出して、語調を整えながら言った。
「何を言うんだ。俺が言おうとしているのはそんなことではない。俺はおかしくなってしまったんだ。……おそらく、あの臨死体験じみたもののせいだと思う」
 話を聞きながら彼は座席に座り直し、香山の言った内容を言い換えた。
「なるほど。死にかけて、命の尊さというやつを理解した、と。現実とは皮肉なものだな」
「そうかもしれない」
 一旦はこう言ったものの、自分の返答には確信をもってはいなかった。彼の発言に違和感を覚えたからだ。さらに問題なのは、その所感の正体が全く不明であったことだった。明がにやつきながら言った。冗談めかして人をおちょくるような顔だった。
「香山、もしかしてお前、薬をやっているのかい」
 香山は明の突拍子もない質問に驚いた。冗談じみたことを口にされ、心外に思った。
「荒唐無稽な。どうしてそんなことをきくんだ」
「仕事に支障が出るから、もしそのつもりが少しでもあるのなら、やめるように諌言させてもらったがね」
 相手の言うことは、理解せずに呑み込むものではない。かみ砕いてその味を確かめなければならないのだ。ところが回想してみても、そんな記憶が見つからない。とすれば彼の発言が何を意味しているのか、全く理解できなかった。彼は『諫言』というへりくだった表現を用いたために、香山に対して殊更無礼をはたらくつもりはないらしい。では、『薬』、とは何かのメタファーなのか? だとすれば、それは一体何を暗示しているのか。
 明は笑っていた。やはり、自分の話を茶化すつもりらしい、と香山は踏んだ。
 香山はそれでも口をぽかんと開いたまま、彼の言葉の意味をたどった。すると香山が呆気にとられているのをいいこととして、ここぞとばかりに明がつらつらと饒舌に話し続けた。
「その様子だと、当ては外れていないらしいね。人はハイになると、神経が昂り、はたまた現実と妄想の区別がつかなくなる。大体の人間は根っからの狂人でないから、狂気の取扱説明書を持っていないんだ。悪いことは言わない。今すぐに持っている薬を捨てて、絶つんだ。請負殺人のブローカーに言うのも実に奇妙だが、真人間を目指して生きたまえ」
 的外れな見当をきいて、香山は自分の危機感を感じ取られていないことを悟った。彼はこういう性格で生まれてきた人間であるらしい。自分と相手の関係に優位性が見いだせれば、それを契機に舌がよく回るようになり、あることないことを話し出すのだ。しかし、彼が饒舌になってくれたおかげで、自分が先に感じた違和感が何たるかを突き止めた。それは自分に考える時間と、言葉の切れ端を与えてくれた。香山は真に言おうとしていたことを受け入れ難い事柄だとして胸にしまい込み、遠回しに伝えようとしていたのだ。
 香山自身がその事柄を悟ったときにどうなったのか。浮かんだのは、パソコンを開いては閉じ、開いては閉じ、喫煙で悪心を催し、布団にくるまって必死に世界の掟から逃れる術を求める、振り返れば滑稽な姿だった。
 だが、そう、一時とはいえ怖ろし気な虚脱に包まれたのだった。それほどまでに彼にとっては大事件であった。いわば地球事変である。神が死ぬ時点までの自分が、神の思うままに行動することを強いられていたということは、次の事実を認めることと同義である。即ち、同時点までに為された決断の根拠となる意思がすべて、それが自由意志であったと願うが故の仮構の代物だということを認めねばならぬことになる。体重を預けていた幹には血が通っていなかった。枝の上の鳥も贋作だった。
 香山は一旦彼のペースに合わせるために彼の言うことに耳を傾けることにした。放置しておくだけで気ままに話す彼の性格はむしろ操作がしやすいのかもしれない、と香山は余裕すら感じだした。
「お前のような人間は、自分が穢れていると感じてそれを許すことができないタイプだね。お前の脳の構造は社会的体裁ではなく、いわゆるスーパー・エゴの存在が占める部分が大変に大きいと俺は踏んでいる」
 彼は、まだ香山を薬物に溺していると決めつけて話を続けた。このまま彼の話を聞いて、機会を待っていてもらちが明かないので、香山は話を遮ることにした。
「いいや、違う。俺は分かった。俺は薬物中毒など患っていはいない。俺はすっかり分かったんだ。どこから話そうか。……俺達が殺した作家を覚えているか」
「作家、だけではどうもね。もう少し冗長性を備えた情報をくれるかい」
「柴田隼人だ、『白い楓』の作者だ」
 明はその名前をきいて即座に、とはいかなかったが、思い出したらしい。そして香山は自分が抱えていた違和感の根源とも言える単語をずばり抜粋し、指摘した。
「俺達が彼を殺してしまったから、この世界、つまりお前の言う『現実』にほころびが生まれ始めた」
「あいつは、そこまで大きな存在だったのかい」
 明が声の調子を下げて言った。香山は、これからどう説明しようかと考えながら、明の迷いを打ちそうと口を開いた。
「当たり前さ」
 ゆっくりと言い、言葉に一種の同情のような気持ちを込めた。果たして彼に理解させることに意味があるとは考えにくいが、どうだろうか。いいやとにかく、一人でも理解者が多ければ、香山の苦悩が軽減されることは間違いない。世の中にはだからこそ、被害者の会なるものが存在する。自分が一人で苦しんでいるのではない、と認識することは、その苦痛を和らげることにつながるのだ。
 香山は認めたくない事実を告げるように、(香山はすでに認めていることだが、明にとってそれはまだ未開の地だからだ)次の言葉を言った。
「彼は……この世界を作った存在なんだ」

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