香山の15「輪廻」(33)

 では死ぬのか? あの一種の臨死体験の際に見えた死には、確かに万物に絶対的優位を見せつける美しさがあった。今一度苦痛に伴われる死を眼前に置けば、再びあの美のシャワーをかぶり、そして私は、免罪を得て永遠に旅立つのではないだろうか? しかし、ここで、私は自身の死は遁走だという、反対の観念を得た。他人に負わせた傷と自身の負った傷の両方を私は抱擁し、癒さねばならないのではないだろうか? 私が死ねば、私の将来性行為は永遠に失われる。そして、生理学にならえば私の痛覚は、生命機能の停止とともに消え去り、そして罪悪を根拠とするこの痛みは損なわれる。損なわれるのだ。この種類の痛みは、私にとって損失ではなく、利益なのだ。ハリネズミがおしくらまんじゅうをするとき、近すぎてはお互いの針が刺さり、遠すぎては温め合うことができなくなる有名なジレンマがある。このとき、一方のハリネズミは相手に針を刺してしまい、自分も同様に刺される痛みを感じて、お互いにとって適切な距離を探るのだ。痛みを次のおしくらまんじゅうの糧にして、お互いを温め合っている。私は……人を殺して、絶対的な孤独に入水することで距離のジレンマを脱した。それでもハリネズミと同じ結果に終わるのが、私にとっての倫理だなんてことは頭では分かっているつもりだった。
 私のミラージュは続いた。腕時計を見て、私はその文字盤を見た。鏡越しに左耳のフープピアスを見た。ついでに背中を観察すれば、それは真っ黒に日焼けしていた。運転しながらタコメーターを見た。信号機を見た。前触れもなく満月を見た。その満月の地中に埋まり、青々と煌めいて自転を伴う公転を繰る地球を見て、太陽を見た。そしてそのすべては黒い闇へと沈み込み、それまでぶつぶつと何かを私に訴えていたのに、突如沈黙を決め込んだのだ。
 闇が晴れていった。魔物じみた、異界の存在が現れた。それは三つの目でまっすぐと私を見ていた。足と手には長く鋭利な爪が生えている。しかし手と足は合計で六本見える。その神の名称は、羅刹天だった。これが抱擁するものは、ちょうど馬車の車輪を思わせる円状のものだった。車輪の中には細かく区切られた映像が映し出され、人の一生が場面ごとに描かれていた。再び羅刹天の目を見た。恨みでも怒りでもない、全く異種の切迫をもっていた。その目にはひとたび恐怖を覚えても、徐々にその感情が色を変えて、畏敬になった。どこかで見たような、見なかったような景色であった。
 この光景を私は理解しようとした。確実に、私の内界で生まれた何かが独立して私に何かを伝えねばならぬと使命にみちたものに思えたのだ。それは私の想念であり、想念ではない。外界からやってくるものが、こうして一人いる空間で、一人寂しく描かれるはずがないではないか。
 私はここで、『自死』を垣間見た。
 しかし、私は、一体いつからこんな罪悪に苦しみを感じるようになったのか。確か、風俗店で働いていた時は、そんな感情はなかったはずだった。先ほど縊り殺されかけたとき、私は当時ソープ嬢を相手に、人の苦しみを感じたと想起したが、それもなるほど、それほどまでに罪悪感に敏感であれば、この世界に入るはずがないのだ。すると、私は死を目前に、やはり自分の人生を罪悪感で美化しようとしていたのだ。それは、生を得た後で『死んでたまるか』と活力を得たことが証明している。死を近くに見れば、人は幸福を得ようと自分の人生を美化しはじめるらしい。
 そう……この仕事を生業にしたのは、他人の利益なんぞどうでもいい、と考えていたからだ。
 ではこの罪悪感の契機は一体何であるのか。請負殺人をはじめた後であると考えると、一つ思い当たる節があった。私の今までの人生のレールを敷いた存在を、私は殺してしまったのだ。

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