白い楓(17)
仕事以外でも人に手をかけてきた明が人の首を切るのはこれが初めてではない。後ろから対象の口を押え、悲鳴を絶ってから強い力で引っ張る。そうすれば対象は確実に理性を失い、事態を理解できなくなる。そこで首に刃物の先端を入れてゆく。忽ちに血が飛び散り、痛みに耐えかねた対象は倒れる。あとは息の根が絶たれるまでめった刺しにし、八つ裂きにする。理性を携えた者が、狂乱に満ち満ちた者を殺すという、この非対称な関係で行われる凶行は何と狡猾であろうか。
これは襲撃する人間が、後ろから近付いたがために容易に成せる芸当だった。しかし、対象が襲撃者を認識している場合はさらに策を講ずる。対象がどう動くのかで全く勝手が異なるのだ。
明を視認した貫一を前に、明は一切の手段がなかった。手も足も出せず、おののいていた。彼の肌の質は液晶のように滑らかでありながら、呼吸を感じさせない。彼の頬には、右目から右耳へかけて縫合の跡があった。腕組みでのぞける手の甲にも似たような跡がある。これらの傷が明だけではなく、数多の人間の人生の終結を表していているように明は感じた。彼はいつの間にか自分の死をその傷に重ねはじめていたのである。
酒を飲みすぎた後のように胃が痛み、何か得体の知れぬものが逆流しようとしていた。
「お前、死を怖れるかね」
貫一は液晶の掟を破り、明に声をかけた。明は答えられなかった。
明は自分が一本のマッチ棒であるように思いはじめた。
明は堕胎したての未発達な胎児だった。言語の全てを彼は失念していたのだ。
そういった自覚をすると、明はいよいよ幼児化が明らかに進んでいった。アスファルトがタイヤで削られる音や、ビルから吹かれる風、街灯の灯を跳ね返す革靴の全てが記号になった。記号は記号でも、明には刺激でしかなくなった。生来初めて味わう刺激が、過剰に周囲に現れて、明に威厳を示そうとしていた。
彼は心の中で、合わせ鏡の間に入った自分を見ていた。安価な鏡で、薄く青みがかかり、それが遠方に見える自分の像を不明瞭にしている。だんだんと、彼の足が歪み、鏡に触れてみるがそれは全くの平面で、実際の明の足も歪んではいない。ネクタイが歪みはじめた。するとネクタイの歪みは渦を生じ、鏡像に映る明の肉体の全てが台風のように螺旋をかたどった。しかし、このすべてを彼は改めて理解することができなかった。光がそうやって重力の法を無視することがいかに現実性のないことなのか、全くわからずに眺めていた。
明の意識の外に住む貫一は唇を横へ伸ばした。薄い微笑だった。
「俺は、怖くはない。きっとお前も怖くなかろう」
明は貫一の言葉が届かず、合わせ鏡の世界にとどまった。小さな水の粒が額に触れた。上を見ると、雲はなかった。それでも雨は降っていた。次第に雨は強まり、そして弱まった。地面は、水をすべて吸収し、乾いたままだった。地面に触れると、それはビニールのように思えた。彼は鏡に向かって歩き出した。鏡に入ると、彼は残された側の鏡を見てみた。緑色ですべてが埋め尽くされていて、この場所の何も反射していないことは明らかだった。彼は叫び声をあげたが、音も反射されなかった。
貫一は続けた。
「金にも関心を与えられないだろう」
貫一が明の腕を取り、ホルスターのナイフを抜き取り、握らせた。
明は変わらず緑を見ていた。この色に何らかの変化が起こるのを、佇んで待っていたのだ。鏡の中でも雨は降った。相変わらず、強弱に定まりがなかった。次第に明は鬱屈を覚えだした。こらえきれず気をそらそうと手のひらを見れば、それはサイコロでできていた。彼の側には、一の赤い点が向いている。裏返してみると、それもすべて赤い点だった。どうも二層構造らしい。手を振ってみると、簡単に崩れてサイコロがぽろぽろと落ちて行った。一つが鏡の外へ踊り出た。落ちたサイコロはまた一の目が上になっていた。拾いに歩みを進めていった。鏡に体が当たり、自分が幽閉されていることを知った。ふと上を見上げたが、ずっと終わりのない空があった。すると自分に脱出の手段がないことに気づき、悲嘆した彼は叫びの限りを尽くした。
鏡を蹴った。叩いた。肩で突進した。
四苦八苦して漸く鏡が割れた。脱出した明は暗闇の中にいた。先ほどまで落ち着きのなかった雨は、霧雨に変わっていた。すると彼はさやかな安堵を得て、訪れたまどろみに体を委ねた。……
明の意識は博多駅に戻っていた。手にはナイフがあり、貫一が彼の腕を握っていた。顔に温度のない液体がかかり、触ってみると赤かった。ナイフは明の支配を逃れ、貫一の言いなりだったが、それは確実に彼の首を水平に進んでいった。
「何をためらうことがあるか、やれッ」
貫一が叫んだ。貫一は明のナイフだけを支配していたのではない。彼の肉体すべてを従えていたのだ。明は力を込めた。貫一は途中まで明らかに何かの言葉を口にしていたが、ナイフが食道を通過してから言葉ではないものを口にしていた。代わりに、ぶくぶくと赤い泡が口から絶えずに生まれていた。そしてナイフは止まらなかったし、腕を握る彼の力も一定のままだった。にわかに彼の頭が落ちた。それは目を閉じ、口はささやかに開かれていた。やっと楽になった、と思ったときだった。それはだしぬけにやって来た。
明はバランスを崩して横に倒れたのだ。その衝撃は明を完全に覚醒させ、事態を急速に理解していった。どうも、彼に腕を握られ、ナイフで彼の首を両断させられたらしい、と明は状況を読み取った。明が倒れたのは、慣性によるものではなかった。倒れた明は頭部に痛みを覚えていた。彼の拳だったのだ。地面に横たわる、頭部を失った貫一は、手足をじたばたとさせていた。彼は、頭部を失った後、明を殴ったのであった。首から上のない鶏が走り出す原理がどういうものかを理解しているわけではないが、明はそれは単に神経の誤ったはたらきによるものだと思っていた。それと、彼の殴打には別の原理があるように明には思えてならなかった。脳ではなく、魂が彼の肉体を動かしたと考えるにふさわしい事態だった。
明は、肉体にとどまらぬ人の殺意を未だかつて見たことがなかった。あの拳は、確実に自分を殺すつもりだったのか、いいや違う。彼の発言からも明らかなように、彼は明を殺すつもりなんぞ毛頭なかったのだ。彼は明の手で殺されることを拒み、自殺によって彼から永遠に雪辱を奪ったのだ。するとますます彼は、あの拳に殺意があったようには思えなかった。死とは永続性をもつ概念であることを、明は心底味わされたのだ。果たして自分にそんなことが可能とは、思えなかった。貫一からそこまでの狂気を引き出したのに、それが全く何の喜びも得ることができなかった。
そして、彼が言うように殺人の報酬なんぞ、明や貫一には何ら意味を持たない。その狂気を発揮するための引き金に過ぎなかった。彼は狂気をもって明の狂気を上回り、その狂いっぷりを明の目に焼き付け、冥土へ旅立って行ったのだ。これは明の肉体に焼き印のような消えない傷跡を残した。地獄から明の焼き印を見上げ、腹を抱える貫一を見ているようで、明は怒涛の恨みを覚えた。
血の水たまりができていた。それは彼の半ばの首から広がっていった。断面からのぞける食道が、こちらに穴を向けていた。そこから何かがうねりながら出てきそうだった。
女が叫んだ。ドアが開いて、こちらへ走ってきた。ナイフを拾い上げた明は、女の顔を確認せずに逃走した。
構内を走りながら、凶手はどうにかして死人を再び殺す手段を考えた。しかしどれもが後の祭りである。死人を冒涜したところで死人は何も苦しまない。人が死ねば無に帰すという自身の断言は、今凶手に牙をむいていた。牙は深く刺さり、なかなかに抜けずこれから先も苦しんでゆく。
途切れそうな意識の中で、凶手は博多駅の中を走っていた。息を切らしているし、頭を強く殴られたために痛かった。シャツには血がついているが、素早く走っているために、それを気に留める人間がいなかった。視点が定まらず、自分が何を見ようとしているのかが分からなかった。足がもつれて転んだ。恥ずかしいとは思わなかった。誰だって、これだけ動揺していれば転んでも不思議はないのだ、と考えたのだ。しかし、この動揺は明の精神的な骨折を予感させる、大変に気味の悪い動揺だった。
走りながら彼は、山中の台地で焚火が赤々と燃え上がるような映像を思い浮かべていたが、何の変哲も無いこの映像が何を暗示するのかは、振り返ってみても分からなかった。
それからこの事件を振り返ったある日、これが解離であることを知った。精神の未成熟な者が、強いショックを与えられたときに一時的に記憶を消去し、自身をそのショックから守る機構がそれである。するとあの合わせ鏡の不可解な世界は、明が自身に、貫一の首にすくみ上っていることを認識させぬように作り上げた、夢のようなものだったことになる。
これは、明にとって貫一の首が恐怖の対象としていかに優れていたかを表すのみにはとどまらない。解離とは、一般には幼少期に起こりやすいものである。つまり、いかに当時の明が未熟であるかをも鮮明に表すものだった。ああ……二十六年の空洞たるや!
かくて貫一の死は明の精神へ時を跨って作用したのだ。
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