2024年10月11日の日記
ハン・ガンがノーベル賞をとったこと、アジアの女性作家がノーベル賞をとったことは大変めでたいと思う一方、基本的には英語にならない限り非西欧・非英語地域が「認められない」のが厳然たるリアリティであることに変わりはなく、結局だれのためになんのために文学賞で盛り上がるんだろうと思ったりもする。Tilted Axisを褒めそやしていいの?とも思う。でもそうやって認知されていくこと、「権威」付けされること、読まれていくこと(売れていくこと)に意味と力が宿るときがある、というのも当然そう。そしてそのためにはだれかが「発見」して、紹介したり翻訳したりしようとしなければいけないのも、そう。
昨日、某大でのコマにお呼ばれして、久々にがっつりタイ文学の話を講義でしたのだが、なじみがないひとたちに向けるなら東南アジア文学賞を「引き」にして作家を紹介するのがある程度効果的だったりもするわけで、われながら煮えきらないこと言っているというのは理解している。
タイの現代作品も最近の主な英訳は(そんなに数はないが)Tilted AxisかPenguinから出ており、もちろんそれは喜ばしいことだし、英訳の版元が悪いとかいう話ではちっともない。ぼくも一訳者+一読者としてタイ文学が読まれる機会が増えることはとてもうれしい。
ただ基本的にいつもタイ側が英訳の可能性を探るべく企画書とか資料を整えて、出版社に「発見」してもらうためにアピールしていくというプロセスを経ているわけで、そういう話をずっと聞いていると結局いまだに植民地主義が形を変えているだけみたいに感じることがあるのも事実。
アメリカのバックアップを受けた反共+親王室政策から誕生した東南アジア文学賞もなんだかんだその構造のなかにある。よほど特殊な年じゃない限りはそういう意味で政治的な作品が受賞することは絶対にない(この15年ではチューサック先生がいた年だけ特殊だった)。詩の年の保守性はさらにすごい。
そもそも審査員が作家ではなくて大学の研究者が中心というのは、文学に「価値」とか「権威」を与えるヘゲモニーの入れ子構造でしかないんじゃいのかな〜、と思ったりもする。でも受賞作の質は基本的に高かったりもするので、自分が紹介するのもそういう作品が中心になったりもして。いやはや。
まあそれはそれとして、そのあと講義に呼んでくれた友人とがっつり文学の話してたらめっちゃ楽しかったので、やはりタイ文学の仕事ちゃんとやりたいですね。とりあえず止まっている短篇集と企画書(×4)を少しずつ……
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