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無駄な指導と伸びる指導

バイクで各地を巡りながらタバコを吹かすために自動車学校に通っている。自動車学校に通うのは約10年分振りだが、何も変わらないのが学校の良さだろう。
さっそく脱線したが、記事を書こうと思ったのはカリキュラムの前半で既に4回も超過(補習)してしまったので、その言い訳を準備する必要性を感じたからである。

私には文才がない。心も豊かではなく、良識ある人が自然にできる言葉の端々への配慮というものが欠けている事を前置きする。

言い訳の前提知識としてバイク操作について触れておこう。
誤解を恐れずに言うと、バイク操作は車操作の倍は難しい。
…というのも、バイクの操作は半分スポーツなのだ。
車なら曲がるためにハンドルを切るだけだが
バイクだと、タンクを膝で挟む、曲がる方向を見る、ハンドルを切る、バイクが倒れない様にバランスを取る…などなど、明らかに忙しい。
教官に「スポーツは得意?」って最初に尋ねられたので
運動音痴は苦労するのだろう。実際、私は苦労している。
これもスポーツたる所以だ。

スポーツとなると、指導内容に感覚的なもの=センスが入ってくる。
これが厄介なのだ。
出来る人の感覚で説明されても困る。
その感覚が素人には無いから共感できない。
それに加えて、指導教官によってセンスの部分はばらつく。
そして、センスは結局のところ主観なのだ。
センスは運転を繰り返して磨くほかないから、結局は練習あるのみなのだ。

10回ほど訓練を受ける中で、好きな教官・嫌いな教官が分かってきた。
好きな教官はやりたい練習をさせてくれて、それに助言してくれる。
嫌いな教官は説明が長く、練習内容を指定してくる。
嫌いな教官の下では、言われた通りにやるだけなのでセンスが磨きにくい。
正直、相性が悪い教官との時間は無駄だ。
その教官に5回ほど指導された事で上達が遅れてしまったのだ。

この現象は、仕事でも起きているのではないか?
部下に仕事を教える時は、ササっと内容を伝え、実際にやらせてみる。
そしてそれに助言するくらいが丁度良いのかもしれない。








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