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「自分が悪いと思っていた」 聞こえるのに聞き取れない、APD/LiD当事者の声を聴く

聴力に異常はないにもかかわらず、うるさい場所や複数人での会話などでは言葉をうまく聞き取れなくなってしまうAPD(聴覚情報処理障害)、またはLiD(聞き取り困難)という症状。

近年、この目に見えない困難へ注目が集まりつつあります。しかし一方で、当事者の抱える困りごとや必要な配慮が社会に正しく認知されているかというと、まだまだであるのが実情です。

そんなAPDについて、当事者や支援者、研究者などに取材し、リアルな声をまとめた書籍『隣の聞き取れないひと APD/LiDをめぐる聴き取りの記録』が翔泳社から発売中です。著者は、自身も耳の聴こえない両親のもとで育ったマイノリティ経験を持つ五十嵐大さん。

本書は五十嵐さんのもとに、とある耳鼻科医から「APDで悩む当事者たちのことを書いてくれませんか?」というメッセージが届く場面から始まります。

今回は本書から、五十嵐さんが最初の取材を行なった様子が描かれた「第一章 聞こえるのに、聞き取れない」の冒頭を抜粋して紹介します。

読者の皆さんが少しでも何か感じ取れることがあれば、嬉しく思います。

◆著者について
五十嵐大(いがらし・だい)

1983年、宮城県出身。元ヤクザの祖父、宗教信者の祖母、耳の聴こえない両親のもとで育つ。高校卒業後上京し、ライター業界へ。2015年よりフリーライターとして活躍。著書に、家族との複雑な関係を描いたエッセイ『しくじり家族』(CCCメディアハウス)、コーダとしての体験を綴った『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)など。2022年、『エフィラは泳ぎ出せない』(東京創元社)で小説家デビュー。Twitter:@daigarashi

「自分が悪いんやな」と思っていた

APD当事者の聴力には異常がない。他の人と比較して聞き取れない自分の聴力に不安を覚え、耳鼻科で聴力検査をしても特に異常は見られないため、その原因もわからず、医師からも「気のせいではないか」「聞く気がないだけではないか」などと言われてしまうこともあるという。

そうやって見過ごされてきた存在――それがAPD当事者だ。だから、まずは彼らについて理解する必要がある。そのためには、彼らと直接話すのが一番だろう。

APD当事者を取材してみたいです。そう告げたぼくに、平野さんはひとりの男性を紹介してくれた。平野さん曰くAPDは支援体制がまだまだ整っていないため、当事者同士の相互支援が盛んらしい。当事者会も存在しているそうで、つないでくれたのは、そのなかでリーダーシップを発揮しながら活躍する渡邉歓忠(わたなべよしただ)さんだった。近畿APD当事者会の代表を務め、オンライン・オフラインを問わずさまざまなイベントを企画するほか、APD当事者としてSNSやメディア上で積極的に情報発信をしている人物だという。二〇二二年二月、渡邉さんにインタビューをさせてもらうことになった。

APDを理解するため、幼少期を振り返りながらいまに至るまでの話を聞かせてほしい。こちらの不躾なお願いにも、渡邉さんは快く了承してくれた。

渡邉さんは関西に住んでいるため、インタビューはオンラインでの実施となった。時間になり、リモート会議室のURLにアクセスする。画面の向こうには、穏やかそうな笑顔を浮かべる男性がいた。

瞬間、事前に調べていた、APDについてのさまざまな情報が頭を駆け巡った。彼らは、聞こえるのに聞き取れないのだ。それなのに――。

コロナ禍の影響で、オンラインでのインタビューや打ち合わせが当たり前になりつつあった。しかし、やはりどこか対面インタビューとは勝手が違う。話し出すタイミングや間合いがうまく測れず、ときには聞き取りにくくなる状況もあった。

そんなオンライン形式でのインタビューは、APD当事者にとって負担ではないのだろうか。気軽に「当日はオンラインでお願いします」と連絡した自分を恥じる。まだなにも知らないから、は言い訳にならない。知らないからこそ、もっと慎重になるべきだった。

「渡邉さん、オンラインでの会話って、聞き取りにくいんでしょうか?」

浅慮を恥じ入りつつ尋ねると、渡邉さんは口を開いた。

「多少の聞き取りにくさはありますが、工夫しているので大丈夫ですよ。気にしないでください」

渡邉さんはとても大きなヘッドホンを装着していた。また、パソコンと自身の周辺を、布のようなもので覆っている。それにより、音が反響することを防げるという。これが渡邉さんの言う「工夫」なのだろう。

現在、三十代後半の渡邉さんが初めて聞き取りにくさを自覚したのは、小学生の頃だった。クリスチャンとして生まれ育った渡邉さんは定期的に教会に通っていたが、そこで"違和感"が芽を出した。

「教会で壇上からのお話を聞きながら、子どもたちはメモを取るんです。でも、それができませんでした。同世代の子たちはみんな、一生懸命ペンを走らせているなか、ぼくには登壇者の話が聞き取れなかったんです。周りの雑音のせいで、言葉がところどころ抜け落ちてしまう。なにを話しているのか理解ができない。だからメモも取れない」

しかし、そんな渡邉さんのことを理解してくれる人はいなかった。メモを取れないのは不真面目だから、という図式ができあがってしまい、渡邉さんは叱られることが増えていったという。

「ちゃんと話を聞きなさい、と何度も言われました。でも頑張っても聞き取れないんです。たとえば、そこに集まる人数が増えれば増えるほど、衣擦れや咳払いなどの音も増えます。それがノイズとなってしまい、壇上で話している人の声が聞き取れなくなってしまうんです。でもそれを訴えても理解してもらえず、結局は『自分が悪いんやな』と無理やり納得するしかありませんでした」

人で溢れかえっている街中を、友人とお喋りしながら歩くシーンを想像してもらいたい。すれ違う人の会話や広告宣伝車から流れてくるアナウンス、クラクション、風が木々の葉を揺らす音……。ぼくらの周囲には想像以上に雑音が溢れている。そんな状況では、隣を歩く友人がなにを話しているのか、うまく聞き取れなくなることがある。それは誰にだって起こりうることだ。しかし、「隣にいる友人の声」に意識を向けると、まるで周囲の雑音が小さくなったかのように聞き取れるようになる。

この「雑音のなかでも特定の人物の声を聞き分け、理解すること」を、「カクテルパーティー効果」と呼ぶ。カクテルパーティーのように、たくさんの人がそれぞれに雑談しているなかでも、人間は自分が興味のある人の発言だけを雑音と切り分けて聞き取ることができる。これは脳に備わっている機能で、カメラのピントを合わせるように、さまざまな音のなかから聞き取りたいものを選別し、それだけを大きくして聞き取ることができるのだという。

しかし、APD当事者のなかには、このカクテルパーティー効果がうまく機能せず、雑音が飛び交う状況下では聞き取りに困難さを覚える人たちがいる。まさに渡邉さんもそのひとり。しかも騒音だらけの街中ではなく、厳かな空気が漂う教会のなかでさえ、衣擦れのような僅かな音がノイズとなるというから、その困難さは相当なものだ。

また、聞き取りに困難を覚えるのは、雑音が飛び交う状況下だけに限らない。APDにはいくつかのタイプが存在し、人によって聞き取りに困難を覚える状況が異なる。たとえば、「会議のように、複数人の声が飛び交うとき」「電話やインカムなどを通じて話すとき」「初対面の人と話すとき」など、そのシチュエーションは実にさまざま。同じAPDとはいえ、苦手な場面は異なるため、彼らを一括りにはできない。それもまた、APD当事者の生きづらさがうまく理解されない要因のひとつだろう。

聞き取りにくさを自覚した渡邉さんは、学生生活のなかでもそれを感じるようになっていった。

「中学生くらいになると、好き勝手に喋るのではなく、相手としっかりコミュニケーションを取ることを意識するようになりますよね。だけど、それが苦手で。休み時間、友人たちと話していても会話が途切れ途切れでしか聞こえず、結局その内容についていけなくなってしまうんです。すると、ふっと取り残されたような感覚に陥る。寂しいですよね。聞き取れないことだけではなく、みんなとうまくコミュニケーションが取れないことがきつかった。ただ、原因はわからないけれど、とにかく自分が悪いんだろう、だからみんなの話についていけないんだろうって思っていました」

失われていく居場所

自分が悪いと思っていた――。渡邉さんは何度もそう口にする。当時はまだ、APDという名前すら知らなかった。わかるのはただ、「自分が周囲とは異なる」という事実のみ。それはきっと、耐え難いほどの孤独感につながったのではないだろうか。

でも渡邉さんは、自身が抱える苦しみを明確に周囲に打ち明けることはなかった。原因が自分にある。そう思い込んでいたこととは別に、もうひとつ理由がある。幼い頃からヤングケアラーとして育ってきたのだ。

ヤングケアラーとは、本来は大人が担うと想定されている家事や家族の介護などを、日常的に行っている子どもを指す。近年、その存在が可視化され、支援策の検討が進められている概念だ。

渡邉さんの家庭では、認知症のある祖母の介護を行っていた。両親やふたりの兄がいた渡邉さんは、自身のことを「バリバリのヤングケアラーよりはマシな状況だったと思います。でも、介護に疲れた両親の愚痴を小学生の頃から聞いていたので、いつの間にか、負担をかけないように頑張らないといけないと思うようになっていったんです」と振り返る。

疲れ切った親がこぼす愚痴を受け止め、また自身も介護に参加する。そんな環境で育った渡邉さんが我慢強い子どもとして育ったのは想像に難くない。

「それまで、わがままなんてほとんど言ったことがなくて。中学生の頃、ポケモンの一作目が出たんです。それを両親に買ってほしいとお願いしたら、『なにかを欲しがるなんて初めてだね!』と驚かれました」

自分を抑圧することに慣れていた少年は、やがて大人になる。そして、いよいよ致命的な問題にぶつかった。それは三十歳を過ぎた頃だった。相変わらず続いていた聞き取れない症状が要因となり、対人関係でトラブルを重ねるようになる。

相手の話が聞き取れなかったとき、それを誤魔化し、曖昧にやり過ごす。これはAPD当事者の処世術だ。何度も聞き返せば怪訝な顔をされ、面倒くさがられてしまう。それならば聞こえているフリをし、適当に頷いていればいい。そう考えてしまうのも仕方がないと思う。

しかし、社会人になり働くようになると、それが通用しない場面に遭遇する機会が増える。

「本が好きだったので、書店員の仕事をしていたときでした。でもいま思えば、環境が悪かった。勤務していた書店は駅ナカにあったので、とても騒がしい店だったんです。お客さんとのやり取りはなんとか適当に済ませられるけれど、電話の声が聞き取れない。それだけではなく、上司からの指示も聞き取れなかったですし、同僚とはうまくコミュニケーションが取れませんでした」

職場の同僚とのやり取りにも困難さを抱える。最終的にそれは、誤解へとつながっていった。

「たとえば、『今週末、飲みに行こうよ』とか『今度、××さんが結婚するから、二次会に参加しませんか』とか声をかけられたとします。でも、それが聞き取れず、曖昧に済ませてしまう。すると当日になって『今日、何時に来るの?』と連絡が入り、そこで初めて慌てるわけです。そんな話だとは思っていないから準備なんてしていないし、参加できない場面も多々あって。でも相手は、ぼくが会話の内容を聞き取れていないだなんて想像もしないので、ぼくはただドタキャンを繰り返す付き合いの悪い人と映ってしまう。そうすると徐々に居場所を失ってしまうんです」

知ろうとしてくれて、ありがとう

この聞き取れなさの正体は一体なんなのか。原因を特定し、対処しなければいけない。このままでは日常生活が破綻する――。焦りを覚えた渡邉さんは、原因を探る決意を固めた。

「そこで最初に疑ったのは、発達障害です。当時、大人の発達障害にスポットライトが当たりはじめていたので、自分もそれが原因なのではないかと思ったんです」

早速、発達障害を診断できる精神科のドアを叩いた。結果、発達面で凸凹は見られたが、いわゆるグレーゾーンという診断結果が下りた。医師からは「対人コミュニケーション能力に問題は見られるものの、医学的には発達障害の診断基準を満たしませんが、カウンセリングを受けますか?」と勧められたが、聞き取れなさの原因が明確にならなかったことに落胆し、その病院は去ることにした。

「前後して、睡眠外来にも通いました。実は、人と話している最中、眠気に襲われることがあったんです。それだけではなく、日中に突然意識が落ちてしまうこともあって。もしかして人の話を聞き取れないのは、この眠気が原因かもしれないと思いました」

しかし診察を受けてみると、軽度の睡眠時無呼吸症候群は認められるものの、日常生活に大きな影響は出ないはず、との結果だった。睡眠障害の面でもいわゆるグレーゾーンという診断が出された渡邉さんの胸中に広がっていたのは、釈然としない思いだ。もちろん、聴力検査に引っかかったこともないため、聴力にはなんの問題もない。では、この聞き取れなさの原因はどこにあるのか。

最終的にたどり着いたのは、現在、国際医療福祉大学で教授を務める小渕千絵(おぶちちえ)さんのもとだった。言語聴覚士としての勤務経験も持ち、二十年以上にわたってAPDの研究に尽力してきた人物だ。小渕さんが当時在籍していたクリニックを訪れ診察を受けた結果、APDであることが判明した。

その頃、渡邉さんは三十代後半に差しかかっていた。正体不明の困難と不安に向き合い、それとともに生きてきて二十年以上が経つ。原因を突き止めるまでのその道程は、想像を絶するほどに長かった。

長年悩まされてきた症状にAPDという名前がついた。その瞬間、渡邉さんは安堵したという。

「率直にホッとしたんです。得体の知れないものをずっと抱えてきたけれど、それがなにか、ようやく判明した。『ああ、そうか。ずっと探していたものはこれだったんだ』と思えました」

そしてその場で、小渕さんから忘れられないひとことをかけられた。「あなたは悪くないんですよ」。そのひとことが、渡邉さんを救った。

「それまでずっと、自分が悪いんだと思ってきました。それを否定してくれる人はいなかった。小渕先生が初めて、『あなたは悪くない』と言ってくれたんです。あ、ぼくは悪くないんや。そう思うと、やっと救われるような気がしました」

ただし、原因が判明したからといって、症状が治まるわけではない。現状、APDを根本的に治療する方法は確立されておらず、当事者は上手に工夫しながら聞き取りにくさと付き合っていかなければならない。

渡邉さんは現在、製造業に就いている。しかし、APDであることを職場の人たちには伝えていない。その理由は「伝えたとしても、みんなどうしたらいいのかわからないだろうし、メリットが感じられないからです」。渡邉さんはあっけらかんと言ったが、それはつまり、「諦めざるを得ない」ということなのだろう。APDとはなにか、当事者として求めるものはなにか、それを逐一説明していくのは骨が折れる作業だ。なかには理解しようとしない人や、あからさまに面倒くさがる人だっているかもしれない。そんな反応と対峙したとき、いつだって当事者は傷つけられてしまう。それならばいっそ、隠しておくほうが楽だ。

「でも、仕事をする上で不便を感じることはあまりないんです。製造業のいいところは、作業がルーティンになっているところ。たとえ会話が理解できなくても、周りの人たちの動きを見ていれば次になにを求められるのかがわかる。聞き取れているかと問われたら、職場の人たちの話は聞き取れていません。ただ、すべての段取りが頭に入っているので、仕事はきちんと回せています」

仕事の合間に交わされる雑談では、適当に相槌を打っているそうだ。なので、人間関係は深められていない。でも、もはや寂しさは感じていない。“諦めている”からだ。

渡邉さんへのインタビューは二時間程にわたった。途中、ネガティブと受け止められる発言があったが、渡邉さん自身は後ろ向きな印象を感じさせない人物だ。現時点では“諦めている“こともあるが、それは〝未来を諦めている〞ことと同義ではない。渡邉さんはむしろ、こんな現状を変えていきたいと思っている。だからこそ当事者としてAPDについて積極的に発信し、認知を広める活動に力を入れているのだ。

「APDについて知ろうとしてくれて、ありがとうございます」

取材の終わり、渡邉さんは言った。そして、他の当事者も紹介してくれるという。お礼を言わなければいけないのは、こちらのほうだった。


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