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〔期間限定公開〕ドミニク・チェン教授に聞く――「失敗したアイデアを活かすには?」

新規事業を成功させるためには、「組織の土づくりから始めよう」
と提唱する『アイデアが実り続ける「場」のデザイン』。
2024年5月15日刊行の同書から、
6月30日までの期間限定で、抜粋をお届けします。

失敗に終わったアイデアが無駄に朽ちていくのではなく、
次の試みに活かされるためには、
どんな組織であれば良いのでしょうか。
「発酵」をテーマに研究に取り組む早稲田大学のドミニク・チェン教授に、どうすれば失敗が「発酵」するのか聞きました。

ドミニク・チェン Dominique Chen
博士( 学際情報学)。NTT Inter-Communication Center[ICC] 研究員、
株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。
著書に『未来をつくる言葉』、『謎床』、『ウェルビーイングのつくりかた』などがある。

小田裕和(以下、「小」) 新規事業づくりでは、「失敗を大事にしよう」と盛んに言われます。でも、実を結ばなかったものを放置しているだけでは、なかなか土が豊かにならない。失敗が組織に還元されない。失敗したとして、誰もそれを受け止めてくれないし、「自分でなんとかしてね」という
状況になってしまっている気がします。
 失敗したアイデアが、そのまま朽ちて腐っていくのではなく、栄養素になる。それはドミニクさんの言葉を借りると、「発酵」なのかなと。ドミ
ニクさんは、発酵について研究しつつ、そこから人間として学べることを探究されていますね。

ドミニク・チェン(以下、「ド」) そうですね。僕は今、人が発酵食品とコミュニケーションするシステムをつくっています。さらに、その情報シス
テムそのものを「発酵させる」とはどういうことか、という問いに対して、プログラミングやプロダクトデザインで実践したり、発酵というメタファーをデザインの概念として論じたりしています。

 ドミニクさんと松岡正剛さんの共著『謎床』(晶文社)で、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの「プリヘンジョン(prehension)」とい
う言葉が出てきます。これは、「出会ったときにつかみとるフィーリング」であると。
 「なんかこれおもしろそうだな」とか「これ、私にとって大切なものかもしれない」などと感じとる力。この力は、新しい何かをつくっていく上ですごく大切だし、この感覚がないと、自分の中でアイデアが自己組織化して生まれてくることもないのかなと。
 加えて、「あえて失敗する」とか、もっと言うと、失敗をエンジョイしていく。その「アーキテクチャをつくる」と書かれていたのが、非常に印象に
残っています。
 失敗がより豊かな営みにつながっていったり、このプリヘンジョンという感覚に結びついたり、そうしたことが発酵につながるのかなと。
 では「発酵すること」と「腐ること」の違いは、どこにあるんでしょう?

 『謎床』はもう6年前の本で、自分自身の考えもそこからいろいろと発酵してきたなと思います。今改めて考えると、「発酵」と「腐る」はそもそも違わないんですよ。
 発酵イコール成功、腐るイコール失敗、みたいな二元論で捉えると分かりやすいと思うんです。ただ、成功か失敗かを決めているのは、人間側の視点なんですよね。
 僕は大学のゼミの名前を3年くらい前に「発酵メディア研究ゼミ」と改称して、同じ名前の研究チームで他の大学の仲間たちと研究しているんですが、研究が「発酵してるな」と感じるときは、思い返すと失敗がないんですよね。
 やることすべてが失敗でも成功でもないという。だから、失敗/成功軸を拒絶するというか、そこに乗っからない。ゼミは30〜40人ぐらいの小さい組織だし、2年ごとにメンバーが総入れ替わりするので、企業組織とは比較しづらいと思いますが。
 分かりやすい成功というのは、結局、外的な仕組みだったりするわけですね。論文が採択されるとか、研究予算が承認されるとか、評判が高まるとか。

 スタートアップで言ったら、IPOするとか。

 そうですよね。でも、目的はそれ自体ではなく、本当はそのプロセスにあるべきだと思うんですよね。
 だから、IPOやエグジットは、発酵を含む自然の摂理からすると、すごく小さなことなんです。本質としては、そのプロセスにおいて、自分たち自身が生き生きとしているかなんですよね。
 もちろん、私たち現代人は社会生活をせざるを得ず、分かりやすい外部指標に一喜一憂する自分もいるわけですよね。でも、例えば夜中に徹夜してコーディングしていて止まらないときとか。論文を書いていて止まらなくなるとか。アウトプットだけでなくインプットの方も、おもしろい本を読んでいて徹夜しちゃうとか。
 「誰からも発注されていないこと」にのめり込めているという状態が、発酵のメタファーで言うと、「発酵している」という状態なのかなと思っているんです。
 でもそのプロセスには、発酵食品が腐るプロセスも混在しているんですよね。例えば、アイデアがうまく消化できないとか、チームのコミュニケーションがうまくいかないとか。でも、それを含めて生きているプロセスというものが、ドライブされるという感覚があって。ずっと摩擦が起こらない状態が続くと、逆におもしろみが減っているのかもと思ったり。
 それをあとから振り返ったときに、これは成功でこれは失敗だった、と区切ることができないという実感があるんですよね。
 だから、例えば10年前にすごく頑張ったけれど、社会的な指標ではうまくいかなかったもの、社会的な失敗だと見なされたものでも、自分はすごくおもしろかったとする。そして、そのフィーリングをずっとキープし続けているわけですね。そうすると10年後のふとしたときに、今自分が向き合っている問題意識に対して、「10年前のあの経験が使えるじゃん」というのが、突然やってくる。
 これは、自分が発見するというより、記憶の奥底からふと到来してくるものなんですよね。能動的に10年前の自分を検索して、「その失敗から学ぶぞ」と考えているわけでは決してないんです。社会的には見向きもされないようなことを、いかにやりためているか。やりためた上で、自分がその総体をおもしろいと思っていたら、勝手に「やってくる」んですよね。

自分の中の根っこが、いつか化学反応を起こす

 為末大さんの『熟達論』(新潮社)という本に、最終的に到達するのは、自分を忘れた「空くうの状態」だという話があったんです。発酵している状態は、まさに時間を忘れてしまうような感覚があって、それが自分のフィーリングとして残っていく。ある種の「身体知」のようなものですね。
 それがあるとき急に、「あ、あのときあんなこと考えてたな」などと自分の中でつながって、豊かになっていく。そういうのが、大きな時間軸での発酵の営みなんだなと。
 ただ一方で、今の事業づくりはそれを全然待てないというか、「個人単位で積み重ねてね」となってしまっているところがある。
 例えばゼミの話でいくと、卒論や卒研などは、締め切りがありますよね。どうすれば短期的な目線にとらわれず、発酵という概念を大切にしながら「待つ」という姿勢を持てるんでしょうか。

 ゼミっておもしろい組織だと思っているんですが、新陳代謝が激しいわけですよね。2年おきに人が入って出ていくので。
 限られた時間で、卒論を書かないといけない。それに対して学生さんたちは、やっぱりすごいプレッシャーを受ける人がほとんどです。
 僕としては、プレッシャーを感じるのは致し方ないとは思うんですけれども、こんなに楽しい機会はないということを、あの手この手で伝えようとしています。そのこと自体がなかなか難しいのですが……。
 卒業論文を書くと、学位がもらえる。学位がもらえて卒業して、企業に就職したり、進学したりできる。それって、運転免許で言ったら「教習所の合宿に参加しました」という免状でしかないと。仮免ですらない。僕は、修論が仮免で、博士号が運転免許だと思っているんです。
 だから学部生のみんなは、仮免の手前の状態なんだよ、だからリラックスしてほしい、と。
 誰からも発注されていないテーマで、好きなだけ時間を使って、自分の関心領域について、大学のインフラを使って論文をタダで検索して、本もタダで借りて、それに時間を費やすことが認められている。こんな幸せな時代、就職してからだとなかなかないよ、と伝えるようにしています。
 だから、時間軸の発酵の話で言うと、僕としては、できれば卒論を書きながら自分の中に張った根っこや菌糸が一生枯れることなく、どこかで枝を伸ばしたりして、その後の人生でやることと化学反応を起こしてほしいと。持続する関心を、その期間で育ててほしいと思っているんです。
 それができたら、さっき言ったような、「あ、これって10年前のあれじゃん」みたいな「代謝」が起こるわけですよね。

「おもしろがるおじさん」

 日本では、社会人になってから大学に行く人が少ないですよね。大学では、根を生やすような時間の過ごし方が大切でも、社会人になってからその時間をつくるのはなかなか難しい。
 新しい物事は、関心の根を張る時間的余裕がある中で生まれてくる部分があると思っていて。それが今、日本の組織ではつくれていないのかなと。
 フィーリングを大切にするとか、そういった時間を豊かにする組織は、どうやってつくっていけるんでしょう?

 例えば、5年前のゼミ生が書いた卒論に、今年もう一回フォーカスが当たるみたいなことが、研究室では頻繁に起こるんですよね。
 5年前はその時点でおもしろかったものが、現在見返すとさらに別の問題意識と融合して、もう一回生き生きとしてくる、みたいなことがある。そういう卒論はそれ自体、生き生きとしたフィーリングを内包して書かれていたりするんです。
 ただの知識や、やったことの報告といった情報的なアーカイブだけではなくて、それを読み返して解凍すると、本人が体験したことをもう一回生き直せるような。
 本でもブログ記事でも、何でもいいですが、書いた当人の体重が乗っているかどうかって、読み手には一瞬で分かるんですよね。自分の生きざまの体重をかけたプロジェクトは、それを10年後に解凍する人に届く強度みたいなものを宿している、という実感があるんですよね。
 だとしたら、いい土づくりをするというか、その土壌を丹念につくっていくのが、最も近道になるのかなという気はします。
 そういう土づくりをする上で、大学教員の役割って何だろう、とよく自問自答するんですよね。
 不思議なことに多くの人が、「自分はこれに興味があるんですけど、あまり価値ないですよね」などと考えがちなんです。それは社会的な指標で捉えてしまうからなのかなと思います。自分なりのおもしろさとか興味深さを他者の視点で覆い隠してしまう。
 そのヴェールを取り払って、「いやいやいや、おもしろいなこれ」と、ひたすら隣で「おもしろがるおじさん」でいようと僕は思っていて(笑)。それがうまくできているかどうかを、自分でもよく反省するんです。
 物知りになっちゃうと、ついつい突っ込みたくなっちゃう。そういう自分自身の悪いおじさんの感性に抗うというか。

 ありますね。新規事業界隈で言うと、「お手並み拝見おじさん」っていう(笑)。

 それは怖い(笑)。

 お手並み拝見おじさんの存在が新規事業の創出を抑制しているという話が結構あるんです。おもしろがるおじさんは、その裏返しですね。

 そうそう。組織論的には、お手並み拝見おじさんにならないためには、「スベり続けるおじさん」になった方が良くて(笑)。
 だから例えば僕がめちゃくちゃ頑張っていた論文がリジェクトされると、全部ゼミ生に吐露するんです。「いやあ、全然かすりもしなかったよ」と。
 教授になったりすると、勝手に権威が塵のように積もっていくんですよね。それを、振り払い続けるというか(笑)。「いや、弱い存在なんだぜ」
「全然うまくいってないぜ」「でも楽しいぜ」というのを開示していくしかない。
 偉くなって、「あの人の言うことを聞いていたら間違いない」という存在になると、トライアルしてみる気風も薄まってしまいそうだなと。なんとかそこに陥らないようにあがいていますね。

失敗と成功を分けている時点で発酵的ではない

 「楽しい」という感覚もあれば、「しんどい」「うまくいかなかった」「モヤモヤする」といった感覚もあって、それを含めて「豊かな状態」だな
と。そういうフィーリングや身体知が、うまく組織の中で循環する状態が、ちゃんと担保されているのかというところに、組織的な土壌の良し悪しが見えてくるのかもしれません。

 そうですね。新規事業を任された若手や中堅の人が、事業としては黒字転換できなくて閉じましたというときに、「あれはいい失敗だったよ」と上の人から言われて、その経験を買われて次のステップに行くみたいな話は、あると思うんですよね。
 だけど、それはそもそも失敗ではないというか。「失敗と成功を分けている時点で、発酵的じゃないんだな」という感覚がしていますね。
 なぜなら、そこで得られた経験が、10年後にうまくその事業の収益性とかち合ったら、それは成功でしかないわけで。だから、人間の活動をどれぐらいのスパンで見ているのか。
 社会制度的には、締め切りが来たから「これは失敗でした」となってしまうのは致し方ない。でも、そのときに組織として、もしくは個人として、それが失敗ではなかったということを、いかに当人も周りの人たちも確認し続けるかが大事なんじゃないかなって思いましたね。

 うまくいかなかったとしても、それに対する自分の思考やフィーリングが残っているわけで、それが生まれたこと自体がとてもいいことだよね、という前提を持たないといけない。

 うまくいっている研究室は、やっぱり組織のリーダーがメンバーをジャッジするというより、メンバーが「自律的に勝手にやっている」感じがする。企業でもいくつか思い当たる例はあるんですが。「お手並み拝見」というのも、ジャッジですよね。

 ジャッジするというのは、ある指標に基づいて評価を下すことだと思うんですが、新規性のあるものは、やっぱりどうしても客観的にどうこう言えない部分もあるじゃないですか。
 たぶん、新規事業はそういうところからしか生まれないと思うんです。組織の中で評価や判断をする人も、その感覚と向き合おうという姿勢がないと、だんだん客観的に評価しようとしていくし、お手並み拝見おじさん化していく。

 これまで、ウェルビーイング・ワークショップなどを企業の方たちを相手にやらせていただいたりしてきたんですが、「自分のウェルビーイングを構成する3つの要素を紙に書き出してください」と皆さんにお願いし、それをもとに初対面の社会人同士でディスカッションさせると、「その会話自体がウェルビーイングだった」みたいな感想がよく出てくるんですよね。
 なぜかと言うと、「そこまでプライベートなことを会社で話さないから」とか、「プライベートなことを話すと、弱みを握られそうだから」とか。
 共同体は「communis」だから、同じものを分かち合う、コモン(共有)のことに依る、ということですよね。でもおもしろいことに、自分自身の内面に近い話をあえてシェアしていくと、実は差異しか生まれないんですよね。
 目の前の人と自分は全然違うぞと。違うんだけれども、その人が大切にしていることについて生き生きと話されると、ついつい耳を傾けてしまうし、興味を持ってしまったり、なんかこの人は素敵だなと思ったり。
 共有とはつまり、分かり合う必要がないというか。分かり合わないまま、でも一緒にいていい。

「共同体」ではなく「共異体」

 以前、人類学者の石倉敏明先生と、民俗学者の赤坂憲雄先生と、遠野のツアーに連れていっていただくという夢のような企画に参加してきたんです。編集者・キュレーターの塚田有那さんの企画で、毎年開催されている遠野巡灯篭木とおのめぐりとろげというツアーです。
 そのとき石倉先生が、「共同体ではなくて共異体という考え方がある」という話をされていて。遠野の民族誌には、「しし」と呼ばれる、動物や植物、もしくは神格化された精霊や亡霊など、人間とは異なる者たちが出てくるんです。人と「しし」は、分かり合えない面も多々あるし、トラブルが生まれることもあるけれど、それでもその関係が続くことを言祝ことほいだり、祝祭で祝ったりする。実際の「しし踊り」という伝統芸能の踊りでも、仲良くしたり、争ったりするシーンが絡まり合っている。
 そのときに、共同体でありながら共異体であること、お互いの差異を尊重することが、すごく大事なんじゃないかというお話をされていて。
 これは、現代人としてウェルビーイングを考える上での大きなヒントだなと。

 いや、すごいですね、分かり合えないということをちゃんと分かち合って、一緒にいることのできる集団になっていく。

 それって、ランキング思想から自由な組織であるとも言えるなと。相手を論破して、勝ち負けをはっきりさせるとか、そういう分かりやすくて簡単な世界に人間はそもそも生きていない。対話を繰り返しても、やっぱり自分と相手は違う、向き合っているところが違う、ということが分かる。
 でも、ある側面から見たら、もしかしたら同じ方向性が見出せるかもしれない。それが対話だと思うんですよね。ディベートではなくて。
 そういうコミュニケーションが組み込まれている組織というのは、発酵する組織と何か共通点があるのかなと。

 新規事業の文脈では、「新結合」という言葉がよく出てきますが、単なる情報と情報の新しいつながりではなく、共異体の中で生まれる新しい関係性なのかもしれませんね。

 好奇心(curiosity)という言葉がありますが、やっぱり「おもしろがる」というのがキーワードだと思っていて。自分とは異なる他者に対して、
適切な好奇心を抱くって何だろう、とずっと考えているんですね。
 好奇心は、かなり暴力的にもなり得るんです。ズカズカと相手の領域に入っていき、「これは何ですか」「それは何ですか」と。そういう土足で相手の家に入っていくような好奇心ではなくて、相手をケアする、もしくは尊重する形での好奇心というのは何だろうと。それは関心と呼ぶのかもしれないけれど、相手と自分の差異が、自分にとって価値と感じられるかどうか、ということですよね。

 そう考えると、「発酵」は微生物や菌の働きだったりしますが、違いをおもしろがる身体的なインタラクションがいかに起きているかが大事なんだろうなと感じますね。

 発酵って一体何なのかと言うと、乳酸菌や酵母が、野菜などの有機物にくっついてエネルギー代謝を行うことなんですよね。
 例えば乳酸菌は、糖質から乳酸を代謝する。糖質を食べて、自分のエネルギーをつくって、その副産物として乳酸をいわば排泄しているようなイメージ。
 ここで言う代謝とは、それが別の人の価値になることです。その別の人は、代謝物をありがたがっていただいている。この代謝のメタファーは、ただ発酵というよりは、もうちょっと解像度を高めた次元の現象だと思っていて。代謝可能性が増えている組織では、その場に何を投じても、ちゃんと代謝が起こる。だから、何を投じても何かしらおもしろい代謝、つまり意味や価値の醸成が起こる組織なんだろうなと。

 「代謝可能性」っていいですね。「組織にとって、いい代謝って何だ?」という問いに変えるだけでも、ちょっとイメージが変わってきますね。

AI に委ねすぎると、「発酵」が阻害される

 今後は、AIが事業を生むようなことも出てくるかなと思うんです。そういう中で、新規事業や新しい何かを生み出す営みは、どう変化していく可能性があるでしょうか。

 ChatGPTなどとの付き合い方は、やっぱり考えざるを得なくて。大学教員としても、テクノロジーと向き合っている一人の人間としても。
 例えば、めちゃくちゃ頑張って書いた論文の原稿があって、投稿の締め切りが1時間後だとする。内容は書けたけれど、いい感じのタイトルが思いつかない。
 そのとき、ChatGPTにアブストラクトを食わせて、「色気のあるタイトルを50個ぐらい出して」と入れると、すごくいいタイトルが出てくるんですよ(笑)。しかも、自分たちで書いたアブストを食わせているから、ちゃんと自分たちの体重も乗っかった上での、色気のあるタイトルが出てくる。
 それで目移りしちゃうわけです。「あ、これはおもしろい」「この発想はなかった」と。でも結局、50個の中から選ばないんですよ。
 いわゆる壁打ちってやつですよね。色気のあるタイトルを出してくれたおかげで、もっと堅実で、かつおもしろそうなタイトルが思いつく。これはすごくいい付き合い方だなと思ったんですね。

 「おもしろい」という感覚がやってきたのを活かして、また最後に自分でつくるという。

 そうそう。自分の身体感覚をChatGPTに委ねすぎていないというか、お手伝いさんとしてそこにいてもらっているという、適切な距離感があるんですよね。
 だから、新規事業の社内コンペは、ChatGPTに全部任せたら通りやすくなるかもしれない。けれども、それで積み重ねた経験というのが、自分の中にグラウンディングしないんじゃないかと。
 生成AIは、そこまでパワフルなものになってきていると思います。だから、何が目的なのかをしっかり把握していればいいのかなと。
 僕の場合は、論文を書くというプロセス自体が一つの大きな価値なので、そこを省くと、やっている意味がそぎ落とされてしまうんですよね。
 ただ、「そこはどうでもいい」「過程はどうでもいい」というなら、全部AIに任せるのでいいと思うんです。そう考える人がいたとして、僕はそれを全否定はできないわけです。でも、例えば10年、20年と長期的に積み重なっていった先に、自分の中で何も発酵していかないんじゃないか、という心配はあります。

 そういう意味では、さっきの「代謝可能性」は非常にポイントをついている気がします。代謝の営みを豊かにしていくところにAIが寄与すると、おそらくいい関係性になるけれど、私たちの代謝という営みがなくなっていくのにAIが寄与すると、私たちの「生」というものがなくなっていく。
 自分たちのフィーリングがより豊かになり、いつか発酵して、何かにつながっていくことが、長期的には組織の力になるのは間違いないはずです。新規事業施策を、単に事業を生み出すためのものではなくて、組織を豊かにしていくところにどうつなげていくのか。そこを、改めてちゃんと考えていきたいですね。


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