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自覚して引っ込め論/紅茶に角砂糖


01:自覚して引っ込め論

 わたしはよくtwitterで、お料理の写真を載せています。ご覧の通り、たいした腕ではありません。ふつうのものをやっと、安定して作れるようになったかな?というレベルです。


 ほとんどの方は、「美味しそうですね」とか、「楽しそうですね」と言ってくださいます。ですが、たまに「その程度の料理を、自慢気に載せるな」というお叱りもあるんですよね。今日は、そんなお話。


1、世界は優秀な人たちであふれてる

 お料理が上手な人って、ほんとうに大勢いらっしゃるんですよね。お料理に限らず、育児だって、美容だって、絵や文章など、ものづくりだって。

 世界は、「自分より優秀な人たち」であふれてて。いつだって自分はたいしたことないわけです。それで言われてしまうのが、「自分の出来の悪さを自覚しろ!」です。

 「たいしたことない人間は、立場をわきまえるべき」的な主張です。

 「優秀な人」と比べられて、「自分が非優秀だと自覚して、引っ込んでろ」って言われてしまう。女性だと、女優さんやアイドルさんと比べられて、容姿のことを言われたり、歳なんだから表に出てくるなという、アレですね。

 「麗しい人と優秀な人は、特別な存在なので発言しても良い」「しかしそれ以外の人間は、たいした存在じゃないことを自覚し、言動を慎むべき」という思想――わたしは、「モブキャラ殲滅思想」と呼んでます。モブキャラたる普通の人が発言してるだけで、「生意気だ!」「偉そうに!」って思っちゃう/思われちゃうやつですね。

 つぎ、反撃いきますね。

2、ふつうの人たちにも役目がある

 優秀な人たちに、役目があるように。普通の人たちにも、重要な役目があります。ざっくり以下の3つです。

<普通の人たちの役割>
  (1)基準として
  (2)許される感
  (3)支える才能

それぞれ見ていきますね。

(1)基準としての「ふつう」

 人々の持つ、「さほど突出してない能力」「ふつうの能力」というのは、基準になります。

 例えば、職場で。新しい加工が必要になったとき。何人かで試して、この人もできない、あの人も無理となると……「こりゃ難しい」「みんなができるよう、ちょっと再考しようか」となります。

 普通の人たちの、「できる/できない」が基準となるわけですね。そしてまた、この「ふつうのできる/できない」が、「その基準値を超えた、特別な人たち」の発見につながります。

 わたしのように時間をかけて、やっとふつうのお料理ができるかどうかという人がそこそこいるから、時短レシピや、簡単レシピが輝くのです。

 普通の人たちの活動や思考が、物事の難しさをはかる「難易度のものさし」となり。また同時に、天才を「天才だ!」とわからせる、「才能のものさし」になるのですね。


(2)許され感をかもしだす「ふつう」

 ちょっと極端なモデルを出しますね。

 「スゴイ!」「素晴らしい!」「けど、何考えてるかわからない!」という天才だらけの世界と。「このひと不器用だなあ」とか、「でも自分も似たようなもん」「わかるわかるw」と思える、普通の人も多くいる世界と。どっちの世界が、気楽でしょうか?

 もうひとつ。古参ファンやベテラン猛者で、ガチガチのジャンルと。そうした長年の人たちもいるけれど、普通の人たちもそれなりに居るジャンルと。入りやすいのは、どちらでしょうか?

 たぶん、どちらの例も後者の方が、楽そうですよね。

 「間違えても、怒られなさそう」とか、「教えてもらえそう」と感じられるのが、後者と思います。「自分も居られるかも?」って、ちょっと気が楽になるのですよね。

 居心地の良さへの貢献、「許される感」です。

 普通の人たちが居る――それだけで、多くの人々に、自然と、場が開けていくのですね。

 普通の人々が活動している姿というのは、見てる人たちに広く安心感を与えます。自分と似たような普通の人が居続けてくれることで、場が活性化して、長く発展していくのです。

 これは、本当に素晴らしい力です。


(3)支える才能に進化する「ふつう」

 ここまで、普通の人たちについて見てきました。ここで一旦、天才と呼ばれるような、特別な人たちについても考えてみます。天才と聞いて、みなさん、どんなイメージが浮かびますか?

 「才能がある」「センスがいい」「型破り」などなど。優れた人のイメージは、いろいろありますよね。でも、10個、20個あげていくと、「よくわからない」「変人」「頭おかしい」などのワードも出ることと思います。

 もうすこし、イメージしやすいように……

 例えば、スポーツ。トップチームには、才能あふれる選手がいますよね。ですが彼ら彼女らは、自分たちだけで勝利を重ねてるわけではないわけです。健康面や精神面をサポートしてくれる先生や、家族。監督、コーチ、マネージャー等など、大勢の関係者がいるでしょう。

 突出した才能のある人たちが、自分たちの思想や行動だけで、なにもかもこなしているわけではない、ということです。

 才能は、もしかしたら、持って生まれたものがあったとしても。その後も、才能を保つ努力を選択し、力を注がねばなりません。つまり、何かを選んで、何かを捨てていくわけですね。

 時間も、気力も、財力も。すべては、限りあるものです。それを、どこにかけるのか? 何を捨て、どのリスクを取っていくのか? そうして培った才能が運良く開花したとしても。その裏側には、学びが追いつかないこと、諦めてきたことが、たくさんあるのです。なんでもできる人では、ないのですよね。

 そしてまたホームズにおいての、ワトソンのように。売れっ子作家における、名物編集者のように。「天才(のダメなところ、捨ててきたもの)を支え、補ってきた、普通の人たち」も、見方を変えれば、天才的な相棒だし、天才的な編集者に感じられますよね。

 「誰かと組むことで現れる才能」が、あるのです。


3、黙らなくていい3つの理由まとめ

 ここまで、「自分より優秀な人たちであふれる世界でも、黙らなくていい3つの理由」をお話してきました。

<普通の人が黙らなくていい3つの理由>
1)普通の人たちは、難易度と才能を図るものさしになる。
2)普通な人が居るだけで、場やジャンルが栄える。
3)天才の支えとして。また天才と組むことで、才能を開花させる人もいる。

 「自分は優秀ではないとわきまえて、黙るべき」とか、「あの人はたいした人間じゃないのだから、引っ込んでるべき」というのは、違うということです。医療や建築など、「その専門技術を持つ者しか任せられない分野」や、「間違いが許されない状況」でもない限り。ふつうだからといって、黙ったり、黙らせたりはナシでいいでしょう。


4、回遊のすすめ

 ちょっと、気持ちをゆるめるお話をしますね。

 家庭と職場しか、自分の「場」がないと。視野に入る、他のご家庭の暮らしぶりや、同僚の出世や成績に気を取られて、「比べて自分は……」となってしまうことって、ありますよね。

 狭い世界では、人間関係が大きく変わることはありませんから、「一度ついた優劣が定着してしまうのでは?」といった不安もあるでしょう。

 いまはネットがあり、居場所は広がりました。
 人と地域、人と物事、人と仕事、人と人のマッチングができるようになりました。

 複数の仕事に触れたり、仲間を探しやすくなったり、ネット内にお店を持てたり、住処を点々と旅するように働けたり……一人ひとりの関われる場が、広がったのです。

 「場」が増えれば、「そこでの自分は、そこでの自分」と考えることができます。完璧な親じゃなくても、理想の仕事ができなくても。第2、第3の仕事にチャレンジしたり。ネット仲間と、「なにかできないかな?」と考えたり。「新しい自分」を試していけます。

 「自分より優秀な人があふれる世界」は、誰かの活躍に自尊心を折られ、互いに言動を監視し、普通の人として慎み合い、発言を控えましょう――なんて、窮屈な世界ではないです。そうではなくて。一人ひとりがいろいろな「場」に関わり、複数の自分を試していける、可能性にあふれた世界なのです。

 以上、「自覚して引っ込め論」でした。

 自分のことも、誰のことも。「たいしたことない」とか、「引っ込んでろ」なんてしないで。いろんな人や、物事に出会って。お互い、おおらかにいきたいですよね。そうしてまた、たくさんの新しいこと、素敵なことが、はじまりますように。


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