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ざまあみろ論は、ただのキャンセル

04:ざまあみろ論は、ただのキャンセル

 幼いころのわたしは、「好き嫌いが顔に出てしまう子」「女の子なのに愛想がない子」ということを問題視されていました。その際よく言われたのが、「人を殴る子、物を盗る子にも笑顔を向け、和を保て」です。

 おかしなことをされているのに、その相手を笑顔でもてなすべきだ――という教えですね。いまだったら(当時もかな?)、怒っていいところだったと思います。
 それで、ちいさいなりに納得せずにいると、この台詞が返ってきたものです。

  「そんな意地悪をする子は、ろくな大人にならないでしょう?」
  「だから、放っておきなさい」

 おとなになったわたしは、この一連の出来事をすっかり忘れていたのですが。仕事関係や交友関係、子供たちをとりまく環境の中で、似たような台詞を耳にする機会がありました。そして、こうした考え方を「ざまあみろ論」と名付けて、しばし観察していたのです。

 今日は、そんな話です。ざまあみろ論。


1、「ざまあみろ論」翻訳編

 「ヒドイことをしたニンゲンには、どうせバチが当たる」「だから放っておけ」――そんな台詞を、耳にしたことはありませんか?

 これは、どういう意味なのでしょうか?
 シナリオとして読み込むと……

 この台詞は、「ヒドイめに合わされている人」に向かって、その「ヒドイめに合っている状況を認識した人物」から投げかけられた台詞です。そうした背景を踏まえて、「台詞の意味」を読み解いていきます。

 まず、「ヒドイことをしたニンゲンには、バチが当たる」という台詞の意味です。

台詞1「ヒドイことをしたニンゲンには、バチが当たる」
  ・暴力や窃盗などをする人は、いずれ事件を起こし罰を受けるはずだ
  ・悪いことをすれば、注意されたり指導されたりするものだ
                    ……と、「私」は思っている。

 「そうかもな」とは、思いますよね。やってる内容が暴力や窃盗なのですから、そういう子がそのままおとなになるなら、どこかでオオゴトになるのではないかというのは、そのとおりだと思います。

 次に、「だから放っておけ」という台詞です。

台詞2「だから放っておけ」
  ・事件になれば、オオゴトになって大変な目に合うはずだから
  ・注意されたり、指導されたりすれば、自分を変えざるを得ないから
 ……だから、相手はヒドイめに合うから大丈夫だと「私」は思っている。

 これも文字に書き起こして、目にして、読んでいけば、「そうだよな」としか思わないものですよね。特別なことは言っていません。

 では、もし自分が「ヒドイめに合わされている側」だったらどうでしょうか? 職場や部活、家庭などで暴言を吐かれている、あるいは、暴力をふるわれているとしたら?

「あいつはバチが当たるんだから放っておけ」と言われてしまった……
  ・これは、「助けようがない」ということなのだろうか?
  ・それとも、「このくらいのことで騒ぐな」ということなのか?
  ・相手が将来ヒドイ目に合うから大丈夫と思っているらしいが
   相手の話じゃない。自分が困っているという話なのに……
    ……どのみち、この人は何もしてくれないのだと「私」は思った。

 こんな風に、感じてしまうのではないかと思います。

 辛い状況にあって相談したあと、「あいつはバチが当たるんだから放っておけ」と言われてしまったら、突き放されたように感じられるのです。

 いま苦しいという人は、いま助けてほしいから声を上げているのですよね。でも誰でもいいわけではなく、「この人なら、味方になってくれるはず」と思った人に相談しているはずです。

 そんなとき、「悪い人たちにはバチが当たるんだから、放っておきなさい」と返されたら。「その苦しみを感じるな」と、言われてるようなものです。これは、悪意の有無に関わらず、困っている人への支援を拒絶し、黙らせてしまう台詞なのです。

 そして、こうした台詞に代表される「放っておけ」系の考え方は、辛い状況の原因たる「ヒドイことをするニンゲン」の方には、何ひとつ有効ではありません。むしろ、ヒドイ状況を見逃すように、「飲み込んで耐えろ」としています。事件が大きくならないように加担してしまったわけですね。


2、「ざまあみろ論」分解編

(困ってる人がいるみたいだ)

(話を聞いてみよう)

(ひどい状況だ!助けねば!)

(原因である暴力をふるう人をどうにか……)

(いや、どうにかするのは難しいな)

(そうだ!この人が強くなって、乗り越えてくれればいいんだ!)

 「拒絶なんかしていない」「バチが当たるから放っておけというのは、相手を思って言ってることだ」という主張も、あるとは思います。ですので、ざっくりと、「ざまあみろ論」に至る思考の流れを書き出してみました。

 「どうせ不幸になるんだから、放っておけ」という、未来に受ける(かもしれない)バツを想像して、気が済んでしまうというところでしょうか。

 自分が直面しているわけでもない問題なので、「そんなヤツ、ろくな目に合わないぞ」「ざまあみろとなるぞ」と思うところで、一区切りできてしまうのでしょう。

 悪気はないのかもしれませんが、はっきり言えば、冷たいですよね。

 こういう態度をとってしまう人の肩を、少しだけ持つならば。「これ以上、気分を害する人のことや、ヒドイめにあって可哀想な人がいることを、考えたくありません」「自分には、荷が重すぎるんです」と、そういうことではないかと考えます。

 いずれにせよ、「その人の精神的キャパシティを超えている案件」です。「その人の手には負えない」ということですね。しかし、当人はそれを自覚していません。自覚がないので正直に、「自分、力になれないわ。ごめん」とも、できないタイプです。

 こういうタイプの人たちを、家族だから/教師だから/上司だから、というポジションで、当てにするのはやめましょう。その人たちも、適正があってそのポジションになっているとは限らないのです。


3、「相談キャンセル」という合図

 こういう「ざまあみろ論」タイプの人にSOSを投げても、まず埒が明かないのです。「あんなヤツ、ひどい目にあうに決まってるから!」と、放置されたり。「そこは、あなたが強くなるところじゃないの?」なんて、注意されてしまったり。自分が絶対に動かない前提での「助言もどき」なので、話を聞くだけでも疲れてしまうでしょう。

 こちらからは相談しないつもりでいても。「なにかありそうだぞ」と気づいてしまったのが、「ざまあみろ論」を展開するタイプだと。そのうち、「そもそもそんなことになる、あなたがおかしいんじゃないの?」という、自己責任論も顔を出します。

 ここで、すこしキツイことを書いてしまいますが……

 自分の手に余る問題を持ち込む相手を、「異常なのはこの人の方であって、この人さえ黙らせれば問題は消える」と決めつける人たちは、どこにでも、一定数いるものです。

 「この人は変な人だ」と決めつけることで、「自分は、手助けできない……」という良心の呵責に苛まれることなく、「いつまで経っても解決できないじゃないか!」と焦ることもなく。ただ、「コイツも、コイツにちょっかいかける人間も、変なヤツだから放っておけ」と、まとめて放り出してしまうのです。

 さらに面倒なことですが、問題が解決しないまま時が進むと、「どうしてこの人は、こんなに問題を引きずっているのか?」「人として、かなりおかしいのではないか?」「これは、ただしてやるべきだ!」という風に、説教演説がはじまることもあります。自慢大会の相手をさせられたり、サンドバッグのように言葉で殴られたりと、より苦しい状況になってしまいます。

 振り返って辛かった時期に、こういうことをやられていませんでしたか? 思い当たるなら、そんなたいへんな時期をくぐりぬけて、いまも生き抜いているご自身を褒めてあげてください。本当に、おつかれさまでした。

 話を戻しますね。

 大変な中にあるときに、こちらの根性の話にされてしまうのは、おかしいのです。苦しいと打ち明けてくれた人に、「頑張って苦しく感じないようにしなさい」なんて言うでしょうか? 悪いことをされてると気づいたのに、「人生はそうしたものだから、とにかく乗り越えろ」なんて、空虚なアドバイスもどきをするでしょうか?

 悪い相手に捕まって、困っている人に。「根性の話」をして切り上げてしまうなら、それは「自分は相談にはのれません」「そういう力はありません」という、合図だと思ってください。「相談それ自体をキャンセルされた」という認識でかまいません。
 自分のピンチなのですから。それ以上、そのやる気のない人との時間を作って、相手をする必要はないのです。

4、「助ける」ってどうすればいいの?

 ここで、視点を変えます。相談する側から、される側へ。「なんだか様子が変だぞ」と気づかれる側から、気づく側へ。もし、自分が相談を受ける側や、様子の変化に気づく側だったら、なにができるでしょうか?

 いつでも、誰でも、必ず助ける――というのは、難しいことです。自分の感情やコンディション、できることの範囲があるためです。人ひとりをしっかり助けるというのは、かなり大変なことです。

 ですが、「この人、なんか元気がないな」と思って話しかけたり、「なんでも話して」というポーズを取ったのなら。「どうせあいつら、ざまあみろって目に合うから」「放っておけばいいよ」なんて話では、ないと思います。

 では、どうするのか?
 「自分に直接、助ける力がなかったときの対応」です。

 助けてくれそうな人や制度、組織などを探して、つなげるようにしてみましょう。具体的には、職場や学校のカウンセラーや、上司への相談です。
 もし、上司があてにならないなら、その上司の上司や、となりの部署の上司……というように、相談先を変えます。

 これは場を管理する側が、「部下の話だけではなく、部下の部下の話までも聞くように」と教えられるのと同じことです。情報を広く取ることで、場を把握する精度を上げることができます。

 または、自分自身に人事権や人脈があるならば、辛い目にあってる人と、問題がある人との間に、緩衝材になりそうな人々を配置していきます。間に人が何人かいれば、問題がある人から、ターゲットになっている人に、直接何かが行われることを防ぐことができます。

 相談先につなぐことも、人を増やして壁とすることも、自分には難しいという場合。別な場所を提供できないか、考えてみてください。困ってる人を、趣味の集まりや、いつも行くランチに招いて、共に過ごすのです。
 毎日、一緒に帰るというだけでも、助かることもあります。暴力暴言のおよぶ場所から離れる時間を、「毎日、確実に持つこと」で、少しでも気持ちと体を、休ませてあげてください。

5、まとめ

 まとめます。弱っている人がいて話を聞いてみたら、辛い状況にあるとわかったとき。だけど、自分にはコレという解決法が思いつかないとき。

 そんなときは、以下のどれかをできないか?、考えてみてください。

自分が直接、助けてあげられないときの対処法

できそうなこと1)
  解決策を持っていそうな人や組織につないでみる。
  例:カウンセラー、上司、上司の上司など

できそうなこと2)
  関わる人数やタイプを増やして、人間関係を薄めてみる。
  例:問題がある人間と座席を離す、間に人を立てる、担当者を増やす

できそうなこと3)
  別な場所を用意し、問題のある場所から、
  困っている人をできるだけ長い時間、引き離してみる。
  例:趣味に誘う、ランチを一緒する、毎日一緒に帰る

 どうでしょう。即解決とは行かないまでも、多少は有効なアクションだと感じませんか?

 上記の「できそうなこと」のどれかを考えてくれる人が、ひとり、ふたりと増えていけば。完全解決はできなくても、問題がある人との関係性や時間を、どんどん薄めることができます。

 辛い場所とは別の居場所がある。話していてそんなに苦しくない人たちがいる。毎日ふつうに過ごせる時間がそれなりにある――そういうポイントが複数あれば、なんとかやっていけると思うのです。

 もしそのどれもが、いまの自分には難しいとしても。「どうせバチがあたる」なんて誰かの不幸を願うことで、溜飲を下げないでください。「あなたが乗り越える話、以上!」なんて根性論で、切り捨てないでください。

 弱っている人に、このふたつを振りかざさないことです。
 そこだけでも、気をつけてみてください。

 そして余裕があるなら、「聞くしかできないけど、ちゃんと聞くよ」って言ってあげてね。

 以上、「ざまあみろ論」は、ただのキャンセルでした。

 ちょっとずつでいいので、みんなで寄りかかり上手になったり、支え上手になったりして、「なんとかやっていけそう」という場所や時間が、広がればいいなと思ってます。
 読んでくださってありがとうございました。

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