往復書簡 第5便「社会的信頼について」(返信:ウチダ)
こんにちは。内田樹です。
どんどん質問が来てしまうので、とりあえず、一つずつ時系列に沿ってお答えしてゆくことにします。今日は「社会的信頼」についてのご質問にまずはお答えします。
正直に言うと、この質問の意味が僕にはよくわかりませんでした。
僕は「社会から信頼されている」というような文型で自分のことを考えたことがないからです。「社会」という主語が大き過ぎて、抽象的過ぎて、意味がよくわからないのです。「社会」という主語は、それにふさわしい大きくて、抽象的な語と対になるものでしょう(「社会福祉」とか「社会主義」とか「社会的公正」とか)。ですから、「社会的ナントカ」が僕個人の具体的な生活とリアルつながりをもつというふうに感じたことがありません。
「信頼」という語と関連づけられるのは、固有名を持った、具体的な個人だけです。その人からの個人的な信頼ということなら、リアルに感じることができる。それ以外の漠然とした「社会からの信頼」ということは僕は感知したことがありません。
例えば、僕は39歳の時に神戸女学院大学に採用してもらって「フルタイムの大学教員」というものになったわけですけれど、それまで31校に公募して不採用でした。31の大学は僕には彼らの同僚としては「欠格」であると判断した。さいわい32校目の神戸女学院大学が採用してくれたのですが、これを「社会的信頼」と呼ぶことができるでしょうか。
僕の論文を読んだアメリカ史の先生が強く推してくれて、僕の採用に反対した人を説得してくれたおかげで採用されたという事情をあとで知りました。だから、僕がある社会的ポジションを得られたのは「社会的な信頼」があったからというより、一人の先生からの個人的な、でも強い「信頼」の結果だったということになります。
結果的に「社会から信頼された」というふうに見えるかも知れませんが、実際にはもしその先生が強く推してくれなかったら、僕は結局大学の教員にはならず、サラリーマンに戻っていたはずです。僕が27歳の時に平川君と一緒に起業した会社はその頃だいぶ大きくなって、編集部門を持っていたから、40歳までがんばって大学の専任のポストが得られなかったら、会社に戻ろうと思っていました。
その道をとった場合でも、「学者の道は諦めたから、また一緒に仕事しよう」と僕が勝手なことを言っても平川君は「ああ、いいよ」と言ってまた迎えてくれたはずですが、これも「社会的信頼」ではなく、「平川君からの個人的信頼」です。ふつうはそんな勝手な言い分は通りません(会社が急成長して「猫の手も借りたい」ときに「オレ、学者になりたい」と言って、辞めちゃったんですから)。
「信頼」というのは雇用形態に帰属するものではありません。個人が固有名で差し出す「信用供与」であり、「債務保証」です。「オレがこいつのことは保証するから」という誓言のことです。切れば血が出るほどリアルなものです。
僕たちは「社会」にすでに包摂された状態で存在します。でも、その社会というのは「空気」のようなものであって、それに信認されたり、それと結ばれたりということはありません。
僕たちを信認し、僕たちと関係してくれるのは個人だけです。そういう個人をひとりずつ増やしてゆくことでしか「社会」という空語(といってよいと思います)に厚みのある実質を与えることはできません。
今回の答えは以上です。
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