見出し画像

もしもサックスが吹けたなら

 今年の春は少々わがままだった。ぐずぐずしていたかと思えば、急に駆け出し去っていってしまった。おかげでゆっくり花見をする機会を逃してしまったのだが、そんな折、うれしい知らせがあった。僕がバイクに復帰したことを知った昔のバイク仲間が、ツーリングに誘ってくれたのだ。満開の桜を求めて、富山と長野をバイクで周遊しようというのである。あの仲間ともう一度走ることができると思うと、前の晩は子供のようにワクワクして眠れなかった。
 さて快晴のツーリング当日、早朝六時の赤津パーキングに四名が集った。久しぶりに会う仲間は元気そうだったが、会わなかった時間相応の老いを感じさせた。積もる話もそこそこに法定速度をきっちり守って、一路、富山を目指す。以前であればひとたびバイクにまたがれば、その性能を遺憾なく発揮しなければ気のすまない奴らだったが、随分とお行儀良くなったものだと苦笑が止まらない。
 仲間の背中を追いかけながら、彼らと走った二十年前のことを思い出す。最も印象に残っているのは「朝練」と呼んでいた早朝のツーリングだ。皆、働き盛りの四十代で、自由になる時間をやりくりして走ったのは、密度の濃い時間だった。ひとしきり山道を走った後、人々が動き出す八時くらいには解散となる。片岡義男の小説のワンシーンのように野点のコーヒーを飲み「じゃあまたなー」と言って、それぞれの居場所に帰っていくのである。仕事に行くものもあれば、家族サービスのために帰るものもあった。そんなことを思い出しながら淡々とバイクを走らせる。
 富山県に入るとそこかしこに薄桃色の塊が点在しているのが目に入る。否が応でも期待が高まる。目的地の朝日町には十時くらいに到着した。桜は満開。残雪を冠した朝日岳を背景に、チューリップ、菜の花、桜並木が奏でる「春の四重奏」が美しい。ヒバリがさえずる青空の下、多くの人たちがカメラやスマホを片手に写真を撮るのに熱中している。当然、我々も負けずに参戦する。
 二日目は長野県白馬村の桜の名所を巡ったのだが、桜はまだ早かった。あと一週間遅ければ、ポスターになりそうな満開の桜を目にすることができただろう。だが、その代わりに雪の残る北アルプスのふもとに広がるのどかな里山を堪能できた。ほんの一ヶ月ほど前、この地にスキーで訪れた際は一面の雪景色。モノトーンで静かな世界だった。それはそれで印象的だったが、四月の白馬は日の光を浴びて空も山も台地も鮮やかに色づき、躍動感あふれる世界が広がっている。その変わりようには驚かされた。
 なかでも白馬大橋からの絶景に眼福を味わった。雪を抱いた白馬三山を背景に、松川を雪解け水がごうごうと流れている。川面を渡っていく風が少し汗ばんだ頬を撫でていく。その風にはさわやかな新緑の香りさえ感じさせる。流れゆく雪解け水は田畑を潤し、新しい生命を芽吹かせることだろう。まさに清明という言葉がぴったりの風景であった。
 圧倒的な自然の力に身を任せていると、ふいに金管楽器のような音を耳にした。フルートよりももっと腹に響く人の声に近いような音色だった。そうサックスのような感じ。誰が吹いているのだろうとあたりを見渡すがそれらしい人は見つからない。空耳だろうか。でもこんなすがすがしい風景の中でサックスを吹いたらさぞかし気持ちのいいことだろう。そんな気持ちにさせる風景だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?