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 避暑地の夏

 朝、鳥のさえずりで目が覚めた。天井の焼杉の木目模様でここが妻の実家であることを思い出す。妻の実家は静岡県下田市の別荘地にある。周囲を森に囲まれ、海まで徒歩五分、夏でもクーラーいらずと、避暑には格好の場所なのだ。
 さて何時だろうとスマホで確認すると五時半。窓越しに薄日もさしている。どうやら雨は降っていないようだ。「よし、走るか」と声に出して起き上がる。襖を隔てた隣の部屋からはテレビの音が聞こえる。義父はもう起きているようだ。向かいの部屋を覗くと妻はまだ寝ている。義父に「走ってきますね」と声をかけると「おっ、そうかね」と言って送り出してくれた。
 玄関を出ると空はどんよりとした曇り空で空気が重く感じられる。晴れていればくっきりと見える山の稜線も今日はぼんやりしている。サラウンドで耳に入る鳥と蝉の声を浴びながら海に向かって走り始める。しばらく走ると大きな白い犬を連れた老夫婦が前方から近づいてくるのが目に入った。この白い犬には見覚えがある。きっと別荘に定住している人だろう。互いに会釈してすれ違う。
 別荘地を抜け、碁石ガ浜を左手に見ながら二つのトンネルを超えると竜宮窟に到着する。走れば十分とかからない。竜宮窟は海岸の地層の弱い部分が削られてできた海食洞で、長年の浸食のため天井の一部が崩落して大きな天窓がぽっかりと空いている。洞内はその日の天気によって様々な表情を見せるので、毎回訪れるのを楽しみにしているのだ。
 狭い階段を降りていくと、こんな早朝にもかかわらず先客がいた。若いカップルが動画を撮っている。竜宮窟は路線バスが一日二本しかない辺鄙な場所にあり、これまではあまり注目されていなかったが、最近は少し事情が変わってきた。ドラマや映画のロケ地となったことがSNSなどで拡散され、訪れる人が激増したのだ。観光資源に依存する地元にとっては喜ばしいことであるが、竜宮窟を独り占めできなくなってしまうのは残念である。
 動画の邪魔にならないよう隅っこで洞窟内を見渡す。今日は台風が近づいているせいか波が荒い。砕ける波音が洞内に反響して雷のようにも聞こえる。洞窟の壁面には、波や風による浸食で荒々しく削り取られた地層を見ることができる。伊豆半島はフィリピン海プレートに乗って運ばれてきた火山島が本州にぶつかってできたと聞いている。一千万年以上前の海底火山の噴出物が織りなす地球の歴史の痕跡は、芸術作品のような趣がある。「あの斜めに走る断面のような焼き物はできないだろうか」。そんなことを考えつつ、後ろ髪をひかれながら洞窟を後にする。
 ランニングから帰ると義父が畑で野菜をとっていた。僕もそれを手伝う。義父と妻の三人で食卓を囲む。取れたてのトマトとオクラを食べると体がしゃきっとするような気がする。やはりスーパーで買ったものとは違う。突然、雨がザーッと降り出した。妻の号令で家じゅうの窓を閉めて回る。避暑地の夏はゆっくり過ぎていく。

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