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余白について考える

 愛知県長久手市に名都美術館という小さな美術館がある。長久手市と聞いてピンとくるかたも多いだろう。そう一ヶ月前にオープンしたジブリパークの近くにある美術館なのだ。その美術館は人でにぎわうジブリと違い、客足もまばらでいつもひっそりしている。友人からチケットをもらうので時々訪れるのだが、僕は作品を鑑賞するというよりは、その静謐な空間に身を置くのを楽しんでいる。今回の展示は横山大観だった。少しはジブリの恩恵にあやかって……と思っていたが、相変わらず客は数えるほど。おかげで大観の作品にじっくり向き合うことができた。
 さて横山大観の名前こそ知っていたが、代表作も挙げられない程度の僕。でも詳しい技法とかはわからなくても、見ているだけで心が安らぐのを感じた。作品は年代別に展示されており、作風の変化が初心者の僕にも分かりやすかったが、晩年の作になるに従い余白が増えるような気がした。例えば大観が好んで描いた富士山がある。余分なものはそぎ落として、主題のまわりにたっぷりと余白をとった構図は、富士山の凛とした姿やスケール感が強調されるようだった。富士山の背景に渡り鳥が飛んでいくのが見えるような気がするなど、余白があることによって想像力が掻き立てられるのを感じた。それを一緒に行った妻に伝えると「それ、飛蚊症じゃないの」と冷たい。余白というテーマに引きずられて見えないものが見えるような気がしただけかもしれない。でも文章も同じだと思う。読み手の想像力を掻き立てる余白があるからこそ、書いている内容に厚みが出る。伝えたいことを全部書き尽くさない方が、読み手の想像力をかきたてることも経験してきた。
 少し話は違うが料理をするようになって、調理も余白が大切であることに気づくようになった。調理の基本的なことかもしれないが、具材をよくばって入れすぎないということだ。例えばフライパンに具材が載っていないスペースを以前は無駄だと思っていたが、空けておくことでフライパンの温度を下げずに手早くおいしく料理ができるようだ。そして料理を盛る器にも工夫をする。子供の頃は大皿に盛ったおかずを兄弟で奪い合うようにして食べるのが、幸せの証のように感じていたが、歳を経ることに食べる量も減ってきた。料理を引き立てるように、余白を生かした大ぶりの器で盛るようにすると、作った料理がランクアップしたような気になる。もちろん料理に合わせた器は自分で作ったものである。
 自作の陶器といえば、先日、若手陶芸作家に混ざって自分の作品を販売する機会があった。なにしろ自分の作品を自分で売ることが初めてだったので、作品を取捨選択することなく、ブースにびっしり並べて、訪れた友人たちに見てもらった。きっと「自分の作品を見てほしい、知ってほしい」という欲が前面に出てしまったのだろう。先輩からも展示のレイアウトをもう少し考えた方がいいよとアドバイスをもらった。文章でいえばろくろく推敲もせずに投稿してしまったようなものだ。その文章もついつい、あれも書きたいこれも書きたいと欲張ってしまう。来年、還暦を迎える僕だが、まだまだ我欲が強すぎるようだ。陶芸にしても文芸にしても余白を生かした作品をめざすよりも、まずは自身のゆとりを心がけた方が良さそうだ。

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