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センス・オフ・ワンダ

 二月の寒い朝、僕の勤めている陶芸教室に生徒のYさんが蝋梅の花を持ってきてくれた。淡い黄色の花をつけた蝋梅は、鼻を近づけると目が覚めるような良い匂いがする。早速、焼き締めの徳利を一輪挿し代わりにしてカウンターに飾ることにした。「春がきたって感じね」と目を細めるYさん。カウンターを訪れる生徒さんたちも蝋梅を見ては「あら、かわいらしい」「まあ、いい香り」とほめていく。蝋梅もそれに応えるように日に日に花びらを開き、さらに香りを増していく。そして凍えながら教室に入ってくる生徒さんを和ませてくれるのだった。植物は一足先に季節を感じ取り、人はその小さな変化に季節の兆しを見つける。自然は本当にうまくできていると思う。
ここで一句。
 
蝋梅やほめてほめられ香る春
 
 なぜ突然、俳句なのか。実は少し前から俳句を作り始めている。とはいえ未だに季語の何たるかもわからないド素人。三ヶ月に一度の句会の前に、慌てて数句作るのが精一杯である。きっかけは一年ほど前、所属している文芸サークルに俳句部ができて、友人から誘われたことだった。最初は「なんだかジジ臭い」とか「どうせ俺にはセンスや才能がないから」と距離を置いていた。でも歳時記をペラペラめくっていると、趣のある言葉に出会ったり、季語に関する雑学にも興味がわいてくる。俳句帳を手近において、気になった言葉をメモしたり、指を折って十七音を数えるのも、言葉遊びをしているようで楽しい。最近では『プレバト‼』を毎週欠かさず見ては、タレントの思いもよらぬ表現に感心したり、夏井いつき先生の鮮やかな手直しにほれぼれとするのも貴重な時間となっている。
 その夏井先生は「日常生活の中に『俳句のタネ』があふれていて、それを見つける感覚を磨くことが日々の暮らしを豊かにする」と言っている。確かに俳句を始めてから日常の小さなことにも目が留まるようになった気がする。通いなれた道の風景から季節の変化を発見しようとしたり、吹く風が昨日とは違うような感じがしたり、五感をくすぐるものから何かを捉えようと、好奇心がムクムクわいてくるのが分かる。夏井先生が「季語の海を泳ぎ、季語の森を歩いているのが、私たちの日常生活」というのも納得である。
 自然と触れ合う機会が増えると、子供の頃外で遊んだ記憶がよみがえることもある。水の冷たさ、太陽の日差し、木々の匂い、春夏秋冬の変化の中で色とりどりに移り行く風景、こうした自然の恵みに、当たり前のように触れて、それだけで楽しかった子供時代のことが思い出されるのである。
「センス・オブ・ワンダー」という言葉がある。自然をあるがままに感じ取る感性というような意味だろうか。ご存じのとおりレイチェル・カーソンの書名としても知られている。でも残念なことに、子供の頃、誰もが持っていた感性を、僕たち大人はすっかり曇らせてしまったのではないだろうか。
 俳句だけでなくこのnoteを書くことも自分の曇ってしまったセンス・オブ・ワンダーを磨くことになるだろう。せいぜい頑張ってポチポチと打ち続けたい。

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