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運のいい男

 人生は空中ブランコに似ていると思う。サラリーマンであれば今の仕事に迷いを感じた経験が誰しもあるだろう。だが別の道に踏み出そうと思っても、相手とタイミングが合わなかったり、好機が訪れても今のブランコを手放す勇気が出ないこともある。人生は思うようにいかない。その点では私は運に恵まれた男だったといえる。
 四年前のこと、私は勤めていた会社の人間関係で悩んでいた。直属の上司が恫喝と懐柔で相手をコントロールしようとするような人で相性が悪かったのだ。ときには核の傘下のように守られることもあったが、言葉の暴力は私に向けられることもあり、受けた傷は澱のように溜っていった。次第に私は職場が近づくと動悸がしたり、不眠にも悩まされた。通勤途中にぼんやりしていて赤信号に気づかず慌ててブレーキを踏むこともあった。しかし転職先のあてがあるわけではなく、安定したサラリーを得られるブランコを手放してしまう勇気もない。退職まであと数年間、我慢するしかないぞと、自分に言い聞かせながら悶々とした日々を過ごしていた。
 そんなとき、ある友人が「そんな会社なんかやめて、私の娘が来年、瀬戸の窯業校に行くみたいだから一緒に行ったら?」とアドバイスをくれた。このなにげない一言が転機となった。最初は他人の人生だからそんな簡単に言えるのだと反感も覚えたが、もともと趣味で酒器の収集をしており焼き物に興味はあった。退職後は我家に訪ねて来てくれた友人たちと、自分の作った米で酒を造り自作の盃で酒を飲み交わすのが夢の一つであったが、その決断が今のような気がしてきた。自分に残された時間が計算できる年齢となり、その残された時間でやりたいことを選び取っていきたい。幸いなことに妻も安定した収入をあり借金があるわけではない。身体も今のところは健康で不安はない。次第に自分の中で決意が固まっていった。
 もちろん妻にも相談した。「もう、決めちゃったんでしょ。決めたら迷っちゃだめよ」。そんな妻の言葉が背中を押してくれた。そして意を決して会社に退職届を提出すると、予想外にあっさりと受理された。もう、これであの嫌な上司の顔を見ないで済むと思うと、まるでポロッとかさぶたが取れたように心が軽くなったことを今でも覚えている。
 こうして突然現れた陶芸というブランコに、あまり深く考えずに飛び移ってしまったわけだが、友人の一言がなかったら、焼き物の道に進むことはなかったかもしれない。縁とは不思議なものだと思う。そして妻や友人たちの支えがなかったら自分の思い通りの道に進むことができなかっただろう。
 縁といえば入学した瀬戸市の職業訓練校でも多くの縁に恵まれた。全国から集った陶芸を志す同志たちは経歴も年齢もさまざまで、一緒に学んだ一年間は学生時代に戻ったようで本当に楽しかった。授業後は自分の子供のような世代と一緒になって酒を酌み交わし、焼き物や自分の将来について語り合ったことも今となっては懐かしい思い出である。しかし良い事ばかりではなかった。慣れない肉体労働に、疲れ果てて帰り、泥のように眠り、寝ていても粘土をこねている夢をみた。また年齢のため飲み込みが悪く「正田さん、なんでできんかな」と教官にあきれられたことは一度や二度ではなかった。そんな時は自分の不器用さを呪い、場違いなところに来てしまったのではないかと悩んだりもした。でもゼロから頑張っている時間は楽しかったし、少しずつではあるが自分が成長しているのも実感できていた。そして何よりも粘土が思いのままに形となっていくモノづくりに魅せられていったのだ。
 訓練校に入学した動機は、友人と酒を飲み交わす器が作りたいといった不純なものであったが、訓練も半ばを過ぎ、次のブランコを考えなければならない時期になると、好きな陶芸を通じて人とかかわることができる陶芸教室で働きたい、そう決意を固めるようになっていた。年齢を考えるとそんな夢のようなことが実現できるのか、と弱気になる自分を奮い立たせ、就職のため数社の陶芸教室を訪問した。ある陶芸教室では、けんもほろろに門前払いをされたこともあったが、念願かなって名古屋市緑区の陶芸教室に就職することができた。私達が卒業した年はコロナ禍で例年より窯業関係の求人が少なく、同期生たちが苦戦する中で、私は本当に運に恵まれていたと思う。
 就職した陶芸教室は大人を対象とした教室以外にも、小学校に出向いて陶芸を教える出張陶芸教室もあった。小学五年生が授業の一環として茶碗や湯飲み、パスタ皿などを作るのを完成までサポートするのである。最初は子育てをしたことのない私が、うまく児童たちと接することができるか不安だったが、自分が思っていたよりも児童たちは素直で「正田先生、ここ教えて」とわからないことは真っすぐに聞いてくる。先生と呼ばれることに面映ゆさを感じながらも、好奇心でキラキラさせた瞳に向き合うのは楽しい。もちろん、やんちゃで手を焼かせる児童もいるが、そういう児童の方が大人をよく見ているものである。腹が立つことがあっても、決して感情的に注意することのないように気をつけている。
 出張陶芸教室に行くようになり、しばらくすると気づいたことがあった。声をかけてくれる児童たちに、ついつい目がいきがちだが、本当に助けてほしい児童の中には、なかなか声が出せない子供も少なくない。そんな児童たちの存在も表情や作品の進捗状態をよく観察すると分かるようになり、自然にこちらから声をかけられるようになってきた。児童たちの声なき声というと大げさだが、それが聞こえるようになると、ますます教えることの楽しさが増したような気がする。
 そして就職して二年が経ち、ようやく仕事にも慣れ、自分に与えられた責任を果たせているという充実感も得られるようになってきた。最近では「日本で一番高いお茶碗はいくらぐらいなのか」とか「グランドの砂と陶芸で使う土とどこが違うのか」など話題にしながら、子供たちが少しでも陶芸に興味を持ってもらえるように授業を工夫するようにしている。
 また児童たちと触れ合う中で教えられることも多い。「○○君、なかなかセンスがいいねー、大人になったらうちで働かない」などと声をかけると「陶芸って儲かるの? 先生の給料っていくらくらい?」といきなり現実的な言葉も飛び出すこともあった。もしかしたら、この出張陶芸教室がきっかけで、未来の陶芸家が生まれることがあるかもしれない。そう思うと子供だからと言っていい加減な対応はできない。そうかと思えば「先生、恋人いるの? マッチングアプリってやったことある?」と女子児童たちに囲まれてどぎまぎしている若いスタッフを見かけたこともあった。今時の小学生の変容ぶりを目の当たりにして驚くばかりである。
 中でも印象出来な出来事が昨年の七月にあった。ある小学校に作品の納品に行った際「正田先生」と背後から声をかけられ、振り向くと私を真っすぐに見つめる男子児童がいた。「先生、僕のこと覚えていますか?」とその児童は言う。名前は忘れてしまったが、その笑顔にかすかな記憶があった。去年この学校で教えた児童の一人だった。男子児童は自分が作った茶碗を毎日使っていることや、また陶芸をやりたいことなどを語ってくれた。自分を覚えていてくれたとは思いもよらず、また子供たちの人生に触れることができたという実感に喜びがじわじわとこみあげてきた。
 昨年一年間の出張陶芸教室の実績は名古屋市内の七十一校、のべ六千人以上の児童に上る。そのすべての児童たちを教えたわけではないし、たった二時間程度の授業の中で、一人の子供に接する時間はほんの数分である。両親や担任の先生と比べればわずかな時間であるが、陶芸を通じて子どもたちの人生に触れることができるのがうれしい。
 私は今、幸せだと思う。職場の同僚も訓練校の先輩で、共通のルーツをもつ仲間という意識もあって人間関係も良好である。今日はどんな子に会えるのだろうかと考えながら出勤するのはワクワクする。毎日が充実しているのを感じている。四年前の暗黒時代とは雲泥の差である。あの時、思い切ってブランコを飛び移ったことを本当に良かったと思っている。支えてくれた妻や周りの友人に感謝したい。その感謝の気持ちを形にするためにも、今の仕事を大切にしなければならないと思う。
 満開を過ぎ(満開を迎えることができたのか疑問ではあるが)残りの花びらが数えられるほどになった私ではあるが、これから花を咲かせようとするつぼみのような児童たちのために、できることはあるはずだ。まだまだ胸を張って「先生」と呼ばれるには遠く及ばないが、児童たちに土に触れる楽しさを伝えるだけでなく、幸せそうに楽しく仕事をする大人の姿を見せて、好きなことを仕事にするのは決してできないことではない。仕事は楽しくするものだ。そんな想いも児童たちに伝えていきたい。それが私を支えてきてくれた人たちへの恩返しになると信じているのだ。

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