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ピンチはチャンス

慣れないリモート、
外的要因による市場変化によって
大変な思いをしたかたも多いと思います。 

貴方は後退せず、
前進することは出来たでしょうか?

歴史などを振り返ってみると、、、
ピンチの時こそ
イノベーションが起こるものです。

例えば、1853年ペリーの黒船来航時、
日本は植民地支配の危機に晒されていました。

尊王攘夷論(天皇を中心とした新しい政府)
が説かれ軍事力がまったく桁違いの
外国を積極的に取り入れて、実力をつけ、
欧米からの侵略に立ち向かうべきだ
という考え方(富国強兵)に変化します。

わずか38年後には日露戦争により、
世界の大国ロシアを破るまでの国にまで
日本は成長しました。

このようにピンチ(植民地支配の危機)を
チャンスに変え、
大きく進化したのが明治維新です。

企業の事例でもみていくと、、、

日本を代表する日本酒
「獺祭」のメーカー旭酒造の話です。
現社長の桜井氏が社長に就任した1984年当時、
旭酒造の売上高は現在の150分の1程度の
9700万円にすぎませんでした。

「県内の狭い市場で競合に打ち勝ち、
40~50%のシェアを狙う戦い方をしていたが、
あまり売れていなかった」そうです。

「狭い市場で競争していると、
資金の差が勝敗に直結するため、
資金力に欠けている旭酒造には不利だ」
と判断し、他社とは違った施策を実施します

桜井氏が選んだのは、
より大きな東京の市場で1%前後の
わずかなシェアを獲りにいくという、
戦略でした。

当時はそれがうまくいき、
90年ごろから東京では
「獺祭」の人気に火が付き、
一躍ヒット商品となりました。

しかし、地元県内から
「県内を無視するな」等の批判の声があがり、「獺祭」の原料としている高級米
「山田錦」の提供を山口県のが拒否します。

お酒が造れなくなったのです。。。

また、事態は悪化し見かねた酒を造る職人が
一斉に会社を去ってしまいました。

酒の原料を仕入れられず、
多額の損失を計上し、
職人もいなくなる状況は、
一般的な酒メーカーであれば
倒産してもおかしくないと思います。

そこから、桜井氏は
米の原料を作る農家に直談判し開拓。
職人に頼らず、標準化・マニュアル化し、
一般社員でも酒を作れる形に。

一般的に杜氏は60代前後の人が多く、
後継者不足が課題となっていますが、
旭酒造の社員の平均年齢は約26歳だそうです。
つまり、職人がいなくなったことで
一気に若返りに成功しました。

ピンチをピンチととらえ、
そこを避けるような行動をするのと、
ピンチをチャンスととらえ成長、
改善のために行動するのか、
で可能性はだいぶ変わります。

「●●だからできない、あきらめよう」と
考えるのと、
「どうしたらできるのか?」と
発想するのとでは可能性が全く違います。

ピンチの時こそ逆転の発想で
乗り越え続けていきましょう!。

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