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対話4-A 中年や初老の男性が愛を伝える方法について教えてください(二村ヒトシ)

前回、「心の穴っていう言葉が大きすぎてまずいのは、三つのことをまぜこぜにしちゃってるからだ」と書きました。

まぜこぜにしてしまった三つとは、下記です。

  • 心の穴ができた原因

  • 心の穴(と二村が名づけたもの)→ 感情や欲望の「くせ」、無意識に抱いてしまっている信念

  • 心の穴が生むもの → 無意識の信念によって、ついやってしまう「当人にとって良いこと」と「当人にとって悪いこと」

ご指摘を受けて、これらそれぞれについてもっと解像度を上げなければいけないと思いました。

そもそも言い出しっぺの僕自身がこれらを明確に区別せず、まとめて「心の穴」と呼んでいました。

また、心の穴という言葉を利用するヤリチン男たち(しつこくてすみません)も、 「お母さんとの関係が君の心の穴だね」「悪い男を好きになってしまうのも、いま僕の話を聞いて涙を流しているのも、君の心の穴だね」
「そんな君の心の穴も魅力的だよ」といった雑なことを言うわけです。

「穴」ではなく「信念」ならリセットすることができる?

まず、心の穴の原因は本当に「子供のころのネガティブな体験や、身近な人(おもに親)とのネガティブな関係」だけなのか。そんな単純な因果論じゃないだろうというのが月美さんのご指摘でした。

それで、他人に対する分析ではなく、おもに自分自身について考え直してみたのですが、以下のような見解があらわれてきました。 

否定ではなく、肯定されすぎてきた経験が「心のくせ=感情や欲望や言動のくせ」になってしまうこともある。

それはトラウマ的な自己否定による内面の葛藤ではなく、甘やかされた本人のニーズが他者のニーズと調整がつかなくなっただけで、そのズレによって現在、苦しく生きづらくなっているわけです。

これは女性にもあるでしょうが、どちらかというと男性に多く起きそうです。伝統的な考えかたや伝統的な行動パターンを持つことが男性にとって有利であり(この部分には異論があるかもしれませんが)それが最近まで社会的に許されてきたから。

そんな現象を「生きづらさ」と呼ぶ資格があるのか、という問題はありますけど。しかしそれも「心の穴」であることは、まちがいない。

また、何年か前にある哲学者のかたに言われたこともありました。

「心という地面の凹凸について、掘られた穴だけじゃなくて、埋まってる石のことも考えるべきなのでは」

「心の石」というのが何を指すのかをそのとき哲学者が明言したわけではないので、以下は僕の想像なんですが、先天的な気質や、脳をふくむ肉体の性能・性質・発達の個人差のことかもしれません。いいとか悪いとかではなく、とにかく最初から埋まっているもの。

さらに、苦しさを生むものは「親(過去)との関係」と「本人の心と体のこと」だけだと考えていていいのか。

これも月美さんに指摘されたことであり、小松原さんの指摘ともまさにつながることですが。本人の内側と、外側にある現代の世の中のしくみ(男女差別など)や本人が今現在おかれた環境(貧困など)との交接点に、生きづらさや恋愛の困難が生まれるのではないか。

そして、僕は「心の穴からは生きづらさや恋愛の困難だけではなく、その人の魅力も生まれる」とも書きましたし、さんざん述べてきました。

その文言に救われた、と言ってくれた読者のかたも沢山おられました。そういうかたは「心の穴があることは悪いことばかりじゃないのだから、自分を罰さなくていい」という意味に取って、自己受容感を得てくださったのでしょう。それを否定はしたくないです。

たとえば「完璧主義であるという心の穴が、苦しみも生むかもしれないが、仕事で良い結果をもたらすこともある」というように捉えるならば(いやいや、これもブラック企業のやりがい搾取に利用されないとも限らないか……)。

しかし解像度の低さのせいで、この文言は心の穴好き男たちに「女性に侵入して支配したがる俺の欲望は、どうしようもない心の穴であるが、俺の魅力でもあるのだ」「君の弱点は魅力なのだから、俺はそこに惹かれるのだ」というロマンチックでナルシスティックなインチキ自己肯定を許してもきたのでしょう。

そもそも「心の穴」というフワッとした言葉がウケたのは、なんとなく多くの人が抱えている空虚さ、さみしさを想起させたからでしょう。

人間は心の穴を埋めようとして恋をする。だが恋では心の穴は埋まらない……。 そんなこと言われたら、恋愛で失敗することが多い人は「そうそう、そうだよね!」とエモい気持ちにはさせられるかもしれませんが、じゃあどうすればいいのかはさっぱりわからない。

ですが、さみしさは、心のくせや信念そのものではなく、その結果であるはずです。

「すべての人間は生きてる以上かならずさみしいんだ」なんて、もっともらしくてエモいことを言ってる場合じゃなく。

くせならば矯正することもできるでしょうし、信念ならリセットすることができるはず、と考えることもできるようにも思えてきます。時間や手間はかかるかもしれませんが、それが当人にとって良くないことを生んでいるのであれば。

『ウツ婚!!』は男性にも効くのかもしれない

話は少し変わりますが。

マジョリティ男性のさみしさは、ほかの男性からの評価や社会的な評価、競争で勝つことで、埋まる部分が大きいとされているのではないでしょうか。ジェンダー論でよく目にする言説ですが、僕自身の実感としても、あります。ステレオタイプな話なのかもしれませんが。

言い換えるなら、自分のさみしさはホモソーシャルの闘争とか友情とかで埋まるという「無意識の信念」をもってしまっている男がいる。よくいる。
一方、僕のように、闘争は嫌いで男性性も嫌いとか言っちゃって、女性に甘えることでしか自分のさみしさは埋まらないと決めつけている男もいる。これまたよくいる。

女性(的な人)は女性(的な人)同士で、戦いや評価でさみしさを埋めるのではなく、優劣のマウンティングのないコミュニケーションをしながら「自身をケアすること」や「誰かをケアすること」で忙しいので、さみしさなんか感じているヒマはない(これまたステレオタイプな話で、いやいや女同士こそ闘争を盛んにしているのだという言説もあるでしょうが)。ただし、そのケアの対象が夫や恋人への一方的なケアだけだとだんだんバカバカしくなって、さみしくなってくるという人もいます。じっさいに女性当人から、そう聞いたことがあります。

月美さんが書かれた『ウツ婚!!』は、なんらかの理由でセルフケアとコミュニケーションが困難になってしまった女性に、おだやかなセルフケアとコミュニケーションを非常にていねいに教えてくれる、その動機づけとして「恋愛すること」ではなく「婚活すること」を置く教科書ですよね。読者が(著者自身も)なぜ困難を抱えたのか、その「なんらかの理由」についての問いかけは一切ない。

石田月美『ウツ婚!! ――死にたい私が生き延びるための婚活』晶文社

「なぜ」を問いかけて「原因」を扱おうとしている僕の本とは真逆の本です。具体的な実践の手引きしかない。だから、クヨクヨしていない本です。

女と男のちがいについて考えているうちに、『ウツ婚!!』のHow to編のセルフケアのレッスンは、もしかしたら生まれつき「愛嬌」というものを持てなかったタイプの男性が、その生きかたを変えるのに役立つアドバイスにもなっているのでは、という気がしてきました。もちろん単純に性別をひっくり返しても通用しない部分も多いでしょうが。 

『ウツ婚!!』で読者として想定されているような「セルフケアに困難や苦しさを抱えた女性」が、「それは病気である」と今の社会から目されてしまうのであるなら。

乱暴なセルフケアしかできないのに、相手をケアできず自分へのケアばかり要求してしまうのに、マウンティングや上下関係でしかコミュニケーションできないのに生きてこれた男性は、男の役割さえつとめていれば社会から許されてきただけであって、これはやはり一種の「病気」なのではないでしょうか。

ケアとコミュニケーションの「できなさ」こそが、心の穴ならぬ「行動や欲望のくせ・無自覚の信念」として、大問題です。

そして、そこが若いころは愛嬌でなんとかごまかせていたのに、加齢や関係の慣れによって女性から愛してもらえるような愛嬌がなくなってエラソーさばかり目立つようになってきた男は、詰みます。これは自分自身の実感です。

「エラソー」とは「自分は何かをしてもらって当然」という無自覚の信念があるということでしょう。

かつてあった愛嬌を失った男は、女性から愛してもらうために、どうやって相手の女性に愛を伝えればいいのでしょう?

結局のところ、相手が何を欲しがっているのかをしっかり聴き、ちゃんと考えるしかないようにも今のところ思うのですが……。

「自分が変わることは可能でも、相手をコントロールすることは不可能」ともよく聞きますし、そもそも「女性から愛してもらう」という発想が、まちがってるのでしょうか?

二村ヒトシ